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はぐれ者たちの大隊:Battalion of Detatchments

「サウス・エセックス連隊は名だたる連隊だ。となるに、銘を削れば、汚名も削れるかもしれぬ。貴殿に分遣隊大隊を与える。拾い、率いるが良い。」

サー・アーサー・ウェリントン、”Sharpe's Eagle”, Bernard Cornwell

バーナード・コーンウェルの「シャープ」シリーズは、十九世紀初頭の戦争冒険小説の傑作である。作品は架空のサウスエセックス連隊(実際にはエセックス連隊はイーストエセックスとウェストエセックスの二個連隊しか存在しない)を舞台に取り、その中で野戦任官を受けた若いシャープ少尉の活躍を描く。

その作品の第一巻における、一つ重要な場面が、上記の場面である。

シャープの上官であり、サクスエセックス連隊の連隊長であるシマーソン大佐は、ある橋を巡る攻防にて失態を犯し、連隊旗を失った。その罪により彼はウェリントンの逆鱗に触れ、降格を迫られることになる。その際、何の説明もなしに登場するのが、この分遣隊大隊(Battalion of Detatchments)である。

戦争において、部隊の一部を本隊から切り離し運用しなければならないいけないという状況は、多々起こりうる。支隊、分隊、分遣隊など名称にて知られるそれらの部隊は数々の戦争で、様々な状況に対応するため、用いられてきた。

とはいえ、それらの分遣隊などが、ここで使われているように、言葉そのものが固有名詞のように語られることは稀である。

更に言うならば、この場面にて、降格されているシマーソン自身、橋を巡る戦闘にて、分遣隊としてサクス・エセックス連隊の第一大隊を率いていたのだ。分遣隊を率いた事の罰として、分遣隊を率いされるというのは、些か奇妙に映る。

当然、これには理由がある。

この分遣隊とは、分遣隊にあらず、分遣隊大隊(Battalion of Detatchments)という、一つの確立された部隊であるからだ。これは、分遣隊を名として冠し、臨時編成の連隊外大隊として生を受けた大隊で、十七世紀から十九世紀末までの間、大英帝国の各領域にて戦い抜くことになる。

臨時編成の定数外部隊というのは、戦争において珍しいものではない。しかし、この分遣隊大隊の理解は、単純にはいかない。そもそも、臨時編成の部隊は大規模なものはよくあるものの、大隊程度という、比較的小規模な単位にて行うものは珍しく、また、このような小柄の部隊を戦場外で人事を行える程度長期間維持するというのは更に珍しいからだ。そのような自体が発生したことは、英国の連隊制度の特殊性と密接に結びついており、これの理解にはまず、その制度の理解が不可欠である。


英国の連隊制度

当時のグレートブリテン連合王国は、今も続く連隊制度を募兵制度として採用しており、それはそれ以前の封建制度とも、以後の徴兵軍とも異なる制度であり、また、海洋国家である英国の特殊な事情もあり、その理解には一定の事前知識が必要である。

通常、連隊というと、それは戦闘単位であり、大隊以上、旅団、ないし師団以下の規模のものを指す。一方、英国の連隊はあくまでも募兵単位であり、それは歴史と伝統を共有する、一つの共同体であた。

英軍において、基本戦闘単位は大隊であり、戦場では大隊が集まり、旅団を形成する。連隊の役割とは、戦場で大隊 。視点を兵士たちに移すと、彼らは、自らを募兵地域を持つ各々の連隊に所属しているものと認識しており、彼らは連隊の一員として戦地に赴く。その為、連隊は他国の戦闘規模の連隊よりはるかに大きくなることがままあり、例えば、より時代が下った時期になってしまうが、ロンドン連隊は、第一次世界大戦において、二個師団、六個旅団を内包し、大隊数は暫定のものを含め、三十四個大隊を数えるまでになった。

現代でも、合併の際には新設される連隊は合併元のそれぞれの連隊の伝統を引き継ぐよう、細心の注意がなされる。英国において、連隊とは、兄弟であり、郷土であり、歴史である。

そして、連隊を通じ、彼らは永遠となる。

現代の王立ヨークシャー連隊の一員は、過去に彼らがワーテルローにて戦ったことを忘れないし、軽竜騎兵連隊の兵たちは、イラクでも自らが軽騎兵旅団の突撃に参加したことを声高に話す。そして、近衛連隊の歴史は、自らが復権した王権の歴史と重なる。それぞれの連隊出身の士官の経歴にはどの連隊の出身であるかが記載され、少なくない場合には、彼らの埋葬は連隊の責任となる。連隊がある限り、兵の勇猛や死は忘れ去られず、それ故に、英軍は連隊の系譜が維持されるよう、躍起になる。

それは、今日まで続く系譜であり、それはフランス革命戦争から、ナポレオン戦争の時代でも同様であった。連隊の派兵先や動員有無などについては英軍最高司令部であるホース・ガーズに決定権があったものの、その先の些事である、募兵、訓練、維持などについては連隊は自らの意思にて決定できる権限を付与されており、連隊は行政・管理の側面にて多くの自由を与えられた。

英軍が二つの軍旗を戦場にて翻すのは、偶然ではない。戦場にて、大隊は国王の旗と、連隊旗を並べ掲げ戦う。その二つは、彼らが何者かを、それ以外の何よりも雄弁に物語っているからである。彼らは国王のシリングを受け取った兵たちであり、そして、連隊の兵なのだ。

後の世界大戦の折には徴兵制を導入するものの、当時の英軍は徴兵制を敷いていない上、各国にて行われたような画一的な動員制度ないし中央化された募兵を行っておらず、それらは各連隊に委ねられていた。各連隊は連隊本部から、近隣の町へと募兵官を派遣し、志願兵を集めた。一般的に、各連隊はその連隊名に頂いているそれぞれの地域を中心に募兵活動を行ったものの、後のカードウェルの改革前であった為、募兵活動は地域に限定されておらず、連隊は必要に応じて、地域外からも人員も募集した。一般的な連隊、例えば第十二(イースト・サフォーク)連隊などは、連隊募兵地のサフォークや近隣のノーフォーク出身者が多数を締めたが、特に、近衛連隊や第九十五ライフル連隊など、各種著名な連隊などは、遠くからも志願兵が来た為、連隊は多地域的な性格を帯び、また逆に著名ではなく、志願兵に恵まれなかった連隊はより広範は募兵活動を行わざるを得ず、同様に多地域的な性格を帯びた。

ナポレオン戦争中の英国の連隊には、主に三種類のものがあった。一個大隊制の連隊と、二個大隊制の連隊と、複数大隊制を取る連隊である。

一番一般的なのは二個大隊制の連隊であり、ほとんどの連隊は基本的にこの構造にて編制されていた。

連隊に二個の大隊を持つ制度の始祖は七年戦争前後にまで遡る。

島国である英国が、陸軍を展開する際、それは基本的にグレートブリテン島の外への展開という形を取ることは自明であり、そして海を渡った先への外征は必然的に派遣が長期間になることをも意味した。

一方で、連隊の募兵、訓練はグレートブリテン島内で行わなければならないことも同様に自明であり、また、外征が長期間となることを踏まえ、訓練も比較的長期間かつ徹底し行われないといけないことも意味した。その2つの事情を加味し、各連隊は、外征用の大隊と内地用の大隊を持つことが1785年8月25日に制度化され、順次各連隊へ適応されていった。

この制度の結果、英軍の兵士たちは極めて良好な訓練状況にて戦地へ赴くことを期待できた。連隊の定員割れ著しく民兵から兵を募兵したなどの特殊な例を除き、戦闘へ送られる兵士は最低でも六ヶ月の訓練を受けており、それは、ナポレオン戦争の主要国にて最長の訓練期間であった。一例として、同時期のロシア軍では二、三ヶ月程度の訓練が一般的であり、フランス軍では、数週間程度で前線に送られることもままあった。

ナポレオン戦争当時、これらの連隊(大隊)の運用は二通りの方法に別れた。片方は、両大隊を同様の戦闘大隊として運用するという方法で、外征中に片方の大隊が十分な損耗を被った場合、大隊そのものを本国で訓練していたものと入れ替えるという手法である。もう片方の手法は、第一大隊を戦闘用の大隊、第二大隊を訓練用の大隊として扱い、第一大隊が損耗を被った際は、第二大隊から補充要員を選抜し、第一大隊へ派遣するという手法である。

この両方の手法もそれぞれメリットとデメリットがあった。前者では実際に訓練した士官が、その士官に訓練された兵士と共に戦地へ赴くという利点があったが、一方で熟練の士官たちが後送されるという問題もあった。一方、後者の手法はそのようなデメリットがなかったが、後送されないということは、兵たちは戦場に居続ける事を強いられたことも意味し、一部支障を齎した。

もちろん、連隊の士官たちは杓子定規にこれらの慣習に従うわけでもなく、無能な士官のみ後送し、有能な士官は現地に残したり、あからさまに疲弊している場合、片方の大隊を後送したりするなど、臨機応変に対応した。また、時には損耗が危機的状況であった場合、第二大隊全体を派兵し、第一大隊へ吸収させるという方法も取られた。

そして、これらの手法のどちらを取るかというのは自立性の名のものと連隊に一任されたが、より一般的であったのは、後者の方法であった。多くの場合、第一大隊が戦闘大隊、第二大隊が訓練大隊となり、第一大隊は可能な限り定数を満たされる一方、第二大隊は定員割れしていた。

このような二大隊制の『一般的な』連隊の他に、一個大隊制も存在した。一個大隊制の連隊は、主に戦時拡張された連隊である。これらは主に、フランス革命やナポレオンによる英本土侵攻の可能性が高くなった時期に内地防衛用として設立され、その特徴は、大隊が一つである為、訓練用の大隊と戦闘用の大隊が同一ということである。これは、これらの大隊が外征を度外視している事を意味した。基本的に、これらの一個大隊制の大隊は、新設された連隊が該当し、ナポレオン戦争当時は、まだ革命戦争時に新設された第七十八以降の連隊、ならびに、まだ設立からさほど日が経っていなかった七十四番以降の連隊が該当した。

例外的に、第十九(第一ヨークシャー、ノースライディング)連隊、第六十五(第二ヨークシャー、ノースライディング)連隊、第五十五(ウェストモアランド)連隊など、歴史ある連隊でも一個大隊しか有していない大隊は存在する。ヨークシャー、ノースライディングに関しては元は一つの連隊であったものを暖簾分けをした結果、各連隊が単一大隊のものとなった。第五十五(ウェストモアランド)連隊は軽歩兵連隊として選抜を行った結果、第二大隊を持つに至らなかったなど、それぞれ個々の内情を持っていた。また、戦争中、第二(王立女王)連隊も、第一大隊の損害が多数であった結果、第二大隊を短期的に第一大隊へ吸収させるという手段を行い、第二大隊が消滅した時期も存在した。

これら通常の二個大隊制の連隊、ならびに単一大隊連隊の他に複数大隊制の連隊もある。複数大隊制の連隊は基本的に二種類のどちらかに分類された。近衛連隊か、特定国籍の志願兵連隊である。

近衛連隊は近衛連隊であり、文字通り、近衛兵よりなった。近衛兵は通常の兵に比べ倍近い給料を与えられた上、平時削減の対象外とされることも多く、結果、多くの兵や士官が近衛連隊への任官を求め志願した。それは近衛連隊側が選り好みできる状況を産み、連隊は質の良い士官と兵を選抜した。それでもなお、連隊は志願者に困らず、結果連隊は複数大隊を有することでポストを増やし、さらに大隊そのものも通常の定数の倍近い人数を有するに至った。これは局所的には財政負担増を産んだが、全体としては、特に削減期に優秀な士官と兵のプールとして機能した為、この部分的な悪習は長きに渡り続くこととなった。

特定国籍の志願兵連隊には第一王立スコッツ連隊、第六十二王立アメリカ連隊などがあり、また正式には英軍から独立した組織であり、英国流の連隊制は取らなかったものの、王立ドイツ軍団(King's German Legion)も事実上のこの類型として活動した。それぞれの最盛期には王立スコッツ連隊は四個大隊を、王立アメリカ連隊と王立ドイツ軍団はそれぞれ八個大隊を有した。一方、特殊な例として、第十八王立アイルランド連隊は二個大隊しか有しなかった代わりに、第二十七エニスキレン連隊(北アイルランド連隊)が三個大隊を有した。また、ウェールズは第二十三(王立ウェルチ・フュージリア)連隊と第四十一(ウェルチ)連隊の二個連隊があったが、双方共に二個大隊連隊であった。

そしてこれら以外にも例外的に第三大隊を有した連隊も存在する。これらは第十四(ウェスト・ヨークシャー)連隊と第五十六(ウェスト・エセックス)連隊、そしてかの有名な第九十五ライフル連隊である。これらは逆に、その知名度より、志願兵が多数おり、結果、三個目以上の大隊を設立できる余力が存在した。

分遣隊大隊(Battalion of Detachments)の始まり

このような連隊が動員する、戦闘単位である大隊は、連隊そのものと異なり、ナポレオン戦争中、ほぼ均一の編制を維持した。大隊は擲弾兵中隊と軽歩兵中隊を含む十個中隊から成り、大隊全体を指揮する大佐ないし中佐、それを補佐する少佐、ならびにそれぞれの中隊を指揮する大尉からなった。平時編成の理論上の大隊の定数は約1000名であった。

しかし、均一の編制はその募兵、補充、損耗が均一でないことから、戦場においては非均一的なものとなった。一例として、1809年に行われたTalaverraの戦いにおいて、最も強力な大隊は第三近衛連隊(スコッツガーズ)の第一大隊で、これは1019名を数えたのに対し、最も脆弱な大隊である第七(ロイヤル・フュージリア)連隊第二大隊は431名、スコッツガーズの約半分以下、に過ぎなかった。

これこそが、連隊制度の弊害であった。

外征軍である英軍の連隊制度は、その特殊性に即した比較的優れたものであったが、欠点がなかったわけではなく、連隊戦力の非均一性はその最たるものだった。独立したそれぞれの連隊は行政手腕の差により、連隊の大隊の戦闘力は大きく異なってしまうのだ。

一般的に大隊が強力になりすぎる分には問題が少なかったが、脆弱になりすぎると問題が発生し、特に大隊が期待される戦闘能力を発揮できない場合、戦場においてつける任務がなくなることが多々あり、そこまで戦力が低下した大隊は多くの場合、遠征地の拠点にて駐屯任務につくことなった。

また、大隊数は同時に遂行可能な任務の数であり、連絡線の防御や主戦場から離れた拠点の確保などに、大隊を派遣したい場合など、大隊の絶対数を増やしたくなる状況はあったものの、同様の理由にて、このことも難しくあった。

しかし、すでに見たような強固な連隊=大隊制を敷いた大英帝国にて、他国で見られたような大隊を解体する、あるいは大隊を統合することで、大隊の戦力を均一化したり、また、まったく新しい大隊を生み出すといった手法を取ることは困難であった。これぞれの大隊はその母体たる連隊の持ち物であり、それは野戦指揮官の管轄の範疇外にあり、その権限は唯一、英軍最高司令部たるホースガードにのみあった。

しかし、野戦指揮官もこれらの困難を座して待つことはなく、上に政策あり、下に対策あり、といった具合に、これをかいくぐる手法を生み出し、徐々に精錬させていった。

その手法こそが、『分遣隊大隊』の編成であった。

『分遣隊大隊』とは、複数の大隊からの中隊、あるいは半中隊規模の分遣隊を募り、それらを統合することで『分遣隊大隊』を編成し、これを単一の指揮官に指揮させるというものであった。

元々、この『分遣隊大隊』という制度は分遣隊として本隊に先行する軽歩兵中隊をまとめ上げ、大隊として運用するための制度であった。多くの場合、軽歩兵中隊は所属する大隊のピケットでしかなく、ヨーロッパでの戦場ではこの用法で多くの場合事足りた。しかし、未開の地域が多いインドやアメリカでは、状況と地形によっては、これらの分遣隊を同時に複数個展開し、長大なピケット線を本隊に先行し構築する必要性があった。このような状況において中隊間の連携の向上と指揮統制を円滑化するためにあえてこれらを分遣隊大隊としてまとめ上げ、一人の指揮官の指揮下に置くという手法がアメリカ独立戦争頃より取られ始めた。

当初は、擲弾兵中隊や、軽歩兵中隊など、比較的良質の兵によりこの大隊を構成することで、戦闘への投入を可能とさしめていたが、この手法は戦闘任務以外の任務の遂行を余剰兵力にて構成した大隊で行う場合などに転用されはじめることとなる。

この時、大隊の構成員はあくまでも元の連隊に所属しており、名目上は大隊には分遣隊としてしか参加しておらず、既存の連隊制度を揺るがさないものであったが、事実上は、独立した大隊として行動することができた。元の大隊は一個中隊、ないし半中隊ほど戦力が削がれることとなったが、擲弾兵中隊や軽歩兵中隊などを本隊から離脱させることは教本にも書かれてある通常任務の範疇であり、そこまで大きな困難ではなかった。

当然、この新たに編成された大隊の士官や兵たちは互いに顔見知りではなく、実際に戦場で用いられる際には、額面の戦力が出ることは稀であった。しかし、これらの大隊を連絡線の保持や、第二線における敵との接触の継続、補給物資の護衛などに用いることで、より戦力の充実した正規の大隊を、それに相応しい任務につかせることができた。特にアメリカ独立戦争において、時たまに発生した、赤いコートを翻し、レッドコートがその場に存在することを誇示する為だけの派遣任務などにこれらの大隊はうってつけであった。

当初はあくまでも戦術的な需要に答えるための手法であった『分遣隊大隊』だが、アメリカ独立戦争を通じこれが野戦軍の大隊数の調整に使えることに野戦指揮官たちは理解をし始める。そして、続く大戦争において、この手法は多様されることになる。

半島戦争における分遣隊大隊(Battalion of Detachments)

分遣隊大隊がその最盛期を迎えたのは、十九世紀最大の戦争である、ナポレオン戦争の中盤ことであった。

1807年のナポレオンのポルトガル・スペイン侵攻により半島戦役が幕を開けると、英軍は同盟国であるポルトガルを支援すべく、遠征軍を半島へ派遣することとなった。ポルトガル国内での戦いにおいて、英遠征軍は活躍し、ポルトガルのほぼ全土をフランスより解放することに成功する。ジョン・ムーア中将麾下の英遠征軍は、この成功を拡張する為、自国の解放を試みていたスペイン軍を支援すべく、バルセロナへ向かうこととなる。しかし、これらの運動の成功は、フランス側の強固な対応も引き出しており、ついにナポレオン自身が率いる軍隊がスペインを鎮圧すべく、国境線を超えたところであった。続く戦役にて、英西葡連語軍は敗北を重ねることになるものの、指揮官であるムーア中将はその生命をかけて、無事、英遠征軍をコルーニャより撤退させることに成功する。

彼の後任として、半島の英軍の最高司令官として次にリズボンに着任したのは、後にワーテルローにてナポレオンを破ることとなる、アーサー・ウェルズリー少将、後のウェリントン公である。

ウェルズリー少将が8000名の兵と共にリズボンに辿り着いた際、彼は二個の見慣れない大隊に出くわすことになる。第一分遣隊大隊と第二分遣隊大隊である。

これら二個大隊の編成はムーア中将の撤退戦における尽力と、キャメロン准将の努力の結果であった。

私はかれこれ、ジョン・ムーア将軍の分遣隊をあらゆる方向にてさまよっているのを見つけ、回収してきた。彼らの一部は英陸軍の名誉を損壊するような行為に手を染めていたことは特記に値する。

アラン・キャメロン准将

コルーニャの撤退戦後、ムーアの軍の大部分は英本国に帰国したものの、撤退時に落後した兵や、元より戦傷、病気によりリズボンへ留まっていた兵、そして実際に分遣隊としてムーアの本隊より離脱した部隊などはスペインからリズボンまでの途上に点在しており、これらの兵の捜索、回収をアラン・キャメロン准将はポルトを中心に行い、結果、3000名近い兵、を回収することに成功し、その内1500名程度は再従軍が可能な状態であった。

通常の状況ならば、これらの兵たちは、後送し、本国の連隊に合流すべきものであったが、フランス軍の侵攻が差し迫る中、これらの貴重な戦力を手放すわけにはいかず、取れる唯一の手段として、彼はこれを分遣隊大隊として再編することにする

しかし、1500名という数は一つの大隊としては巨大すぎた為、第一大隊と第二大隊を成した。

第一大隊は十八の連隊からなる46名の士官と828名の下士官と兵が、第二大隊は十五の連隊から46名の士官と734名の下士官と兵が所属した。

第一大隊では、第四十三(モンマスシャー軽歩兵)、第五十二(オックスフォードシャー軽歩兵)、第九十二(ハイランダー)、第九十五(ライフル)連隊が十分の兵が居たため、独立した中隊を形成した。同様に、第二大隊では第二、第四、第五、第六、第三十二、第三十六、第五十、第七十一、第八十二が独立した連隊所属の中隊として大隊に参加した。

特に、第一大隊の所属連隊は、重要な意味をなした。第一大隊の連隊所属中隊の内、3つの中隊、第四十三(モンマスシャー軽歩兵)、第五十二(オックスフォードシャー軽歩兵)、第九十五(ライフル)は、軽歩兵連隊の中隊であり、第一大隊は事実上軽歩兵大隊としても運用することが可能であった。

そして、分遣隊大隊制度そのものに視点を移すと、この時期、ウェルズリー公は別途カディスとジブラルタルの防衛の為、それぞれ一個づつ、分遣隊大隊を編成しており、また、本国でも、計画中の低地諸国侵攻の為、分遣隊大隊が作られていた為、分遣隊大隊は合計五つ存在したこととなる。

それらの大隊はどれも、似たような問題を抱えており、分遣隊、ならびに、病傷兵、そして脱走兵たちにより形成されていた彼らは、団結と秩序に欠き、あわやならず者共の大隊と化していた。ウェルズリーの副官であり、後に旅団長として分遣隊大隊を指揮するスチュワート准将はこう残している。

これら分遣隊大隊とやらがすぐにでも正規の兵にて置き換えられることを私は願う。彼らは風紀の乱れの原因となっている。団結の欠如により、相互の身だしなみを注意しない彼らは、戦闘では戦うものの、それら全ての行事において一切のしつけがなっていない。また、彼らの士官たちも、短期の任官だからと上官を敬わず、通常の連隊のような規律が失われている。

シャールズ・スチュワート准将

それでも、貴重な戦力である彼らは、必要に迫られ戦場へと投入されることになる。そして戦場にて、彼らは彼らの価値を示すことになる。

ポルト戦役、ならびにタラベラ戦役における分遣隊大隊(Battalion of detatchments)の活躍

5月上旬、ウェルズリー公はポルトガルからスルト元帥フランス軍を追い出すべく、リズボンを出発する。その際、キャメロン准将の両分遣隊大隊は遠征軍に含まれることとなる。ポルト戦役の始まりである。

この戦役の初期段階において、分遣隊大隊の第一大隊は遠征軍の前衛に配置され、その三個軽歩兵中隊は、ポルト近郊にて発生した三日間の戦いにて最初にフランス軍と交戦した歩兵となった。

5月10日の夜明け頃、スルトのフランス軍を求め北上していたウェルズリー公の遠征軍の騎兵線は、フランス軍のピケットと接触する。しかし、歩兵を有していたフランス軍のピケットに対し、不利な状況となる。これを援護すべく、分遣隊大隊の第一大隊は現場に急行し、英軍騎兵の救援を行う。この救援の到来を見ると、フランス軍のピケット線は不利を察し、すぐさま後退する。

翌、11日にも分遣隊大隊の第一大隊は戦闘に参加することになる。まず、大隊の軽歩兵中隊は、高台にある林に対し攻撃を命じられるが、これは強い抵抗に遭い、幾らかの損害を出した上、攻撃は停滞する。これに見かねたウェルズリー公は高台の左右をそれぞれ一個大隊規模の迂回攻撃を行った上、分遣隊大隊を含んだ一個旅団にて林を攻撃するよう命じる。このような強力な攻撃にさらされた結果、フランス軍は少なくない損害を出し、後退することになる。

そして続く12日、ドウロ川における戦いにおいても重要な役割を果たす。前日から続く後退するフランス軍の追撃戦にて、英軍は戦果を上げつつあったが、その途上に、500mほどの幅のドウロ川が立ちはだかることになる。付近にあった船を使い、ヒル少将の旅団がドウロ川を渡河するが、これにフランス軍が逆襲をかけ、ヒル少将は窮地に陥る。これを援護する為、攻撃するフランス軍の側面に展開できる位置へと、分遣隊大隊は渡河する。ヒルの旅団に気を取られ、渡河へ抵抗することができなかったフランス軍は、むしろ思わぬ方向から来た攻撃に対し、またも後退を余儀なくされる。この後、同様に渡河した軽騎兵の追撃もあり、フランス軍は撤退を早める必要性に迫られ、全ての砲を置いて撤退することとなる。

この日の分遣隊大隊の急速な渡河からの展開はウェルズリー公の目を引き、彼らは賛辞を受けることになる。しかし、この賛辞も、英国の連隊制度の味が効いたものであった。

遠征軍指揮官は、幾度となく以下の連隊の兵と士官の勇猛さを目にすることになった。それは、第九十五連隊であり、第二十九、四十三、そして五十二連隊の軽歩兵のものであった。

アーサー・ウェルズリー、1809年5月12日付け公報

この日、戦場に大隊として存在したのは、上記の内、第二十九連隊だけであり、他の三個連隊の大隊に関してはリズボン、あるいは英本国にあった。すなわち、これらは間接的に、分遣隊大隊であることを示している。これは、分遣隊大隊があくまでも臨時編成の大隊であるという性質を強く反映したもので、あくまでも兵は連隊のもので、いくら活躍したのが大隊であったとしても、その賞賛はそれらを兵を産んだ連隊に帰すべきであるという精神の現れである。

ポルト戦役にてフランス軍をポルトガルより追い出すと、戦力の再編成をウェルズリーは行う。そして、一月半ほどの後、スペイン軍の救援の為、国境を超える。タラベラ戦役である。

一月にわたる、行軍、機動と対抗機動の結果、合流を目指すスペイン軍と英遠征軍と、同様に合流を目指すヴィクトルの第一軍団とジュールダンのスペイン遠征軍が両者共にタラベラを中心とし、相まみえる形となる。

冒頭に述べたバーナード・コーンウェルの「シャープ」シリーズ、第一巻のクライマックスを飾ることになる、タラベラの戦いにおいて、分遣隊大隊の第一大隊は最重要地形である英軍最左翼にある丘を巡る戦いに巻き込まれることになる。

7月27日未明、フランス軍よりも先にタラベラに到着した、英西連合軍は、翌日のフランス軍の攻撃を見越し、先んじてタラベラの北に部隊を展開し始めた。中央では陣地を形成する一方、左翼は60mほどの小高い丘の麓に部隊を展開させていた。左翼が陣地に展開し終えた頃には既に日没後で、部隊は、野営の準備を開始していた。

一方、英西連合軍に遅れ、午後九時に戦場へ到着したフランス軍は、その遅れを取り戻すべく、イニシアチブを発揮する。ジョールダンは戦線の各所にて散兵線ならびに竜騎兵による威力偵察を行う一方、この戦場における重要地形は英西連合軍最左翼の丘にあると見抜き、すぐさま第九軽歩兵連隊を丘の制圧に送り出す。休憩中であった丘上に展開していた第四旅団が敗走すると、付近にいた第二師団長のヒルは現場へ急行し、最寄りの部隊に反撃を命じる。その時、丘上に最も近かったのは、他でもない、分遣隊大隊の第一大隊であった。

当時第一大隊に所属した、第九十二連隊のニコル軍曹は、そこからの出来事をこう語る。

当時、旅団は食事の準備中で、丁度ビスケットを配り終えたところだった。その時、俺らはスチュワート准将が「丘へ!丘へ!」と俺たち分遣隊
に向かって叫んでいるのを聞いたんだ。どうやら、将軍は他の連隊じゃ間に合わないと思ったらしい。となると、といった具合に俺たちは暗闇の中走り始めた。本当に暗かった。しかし、俺たちより先にフランス人たちが丘上に到達したみたいだった。そんな中、幾人かが俺たちの戦列の間を「エスパニョール!エスパニョール!(スペイン人の意味)」や、「アレマンズ!(ドイツ人の意味、元々丘上は王立ドイツ軍団の大隊により確保されていたはずであった)」とか叫びながら通り抜けてったりしたっけかな。

士官たちは金切り声で「スペイン人には発砲するな」とか叫んだから、俺たちは必死に下山する彼らを避けたんだが、やつらは下で殺されるか捕虜になったみたいだった。上を見上げると発砲光が見え、そこで何が起こってるかをようやく気づくことが出来たんだ。どうやら俺たちの中隊は敵の後方まで辿り着いちまったみたいだったんだ。そこでフランス人たちが俺たちの仲間たちを首根っこで掴んで捕虜にしようとしてたもんだから、俺たちははっとして、やつらに殴りかかったんだ。銃剣、銃弾、そして銃底がとても役に立った。最悪の白兵戦だった。

ニコル軍曹

大隊は一時的に丘上を確保することに成功したものの、一個連隊の攻撃を一個大隊で凌げるはずもなく、徐々に状況は不利になっていく。しかし、丘上が完全に失われる前に、増援の第二十九連隊と第四十八連隊の大隊が戦場に到達する。これらの増援を得て、連合軍は丘上を完全に奪還することとなる。

そこから翌日まで大隊は丘上で過ごすことになる。朝日が登った午前五時頃、大隊は仏軍の砲撃を受けることになるが、すぐに反射面陣地まで後退を命じられる。しかし、この後退の結果、無人となった丘上に、仏軍は再度進出を試みる。当然、この攻撃に対応する為、大隊は再度丘上に上がるよう命じられる。

大隊はこの日の日中を通じ、幾度となく行われる、この丘上を巡る戦いに従事することとなる。攻撃が来れば丘上に駆け上がり、敵の攻撃を跳ね返す一方、敵の撃退後は砲撃にさらされ、反射面陣地に逃げるといった次第である。仏軍は最終的には歩兵の突撃による強引な丘上の奪取を諦め、散兵により反射面陣地内の大隊の撃破を目指すが、最終的にはこれも追い返されることになる。日没時、戦場を保持しているのは英軍であり、退却したのはフランス軍であった。

二日間にわたる激戦において、分遣隊大隊の第一大隊は609名の内、273名、約半数、が死傷する大損害を被った。しかし、この損害は、価値のある犠牲であった。第一大隊は重要地形である、最左翼の丘を守り切ることに成功し、勝利に大きく貢献したのだ。

その後の分遣隊大隊(Battalion of detatchments)

栄光のタラベラの戦いのあと、分遣隊大隊はゆっくりと、しかし着実にその寿命を迎え始めることとなる。

タラベラの戦いの翌日、26時間にて70kmを走破する強行軍により、英軽歩兵師団がウェリントンの遠征軍に合流する。この軽歩兵師団には、第九十五連隊、第四十三、第五十二など、第一大隊の母連隊が多数含まれており、大隊の生存者達はこれらの大隊に合流し、第一大隊は事実上、解散することなる。

また、英本国からもこれらを解散させる要求が強まっていた。特に、タラベラの損害は許容の範囲を超え、低地諸国への遠征を企図していた母連隊はその実戦力の低下を恐れ、大隊の解散と連隊構成員の即時後送を要求していた。

これらの要求に屈し、タラベラの翌々月の9月、ウェリントン公は両分遣隊大隊を正式に解体する。また、続くようにカディス、ジブラルタルの両分遣隊大隊も戦線が北上するにつれ解体されることとなる。

そして、ナポレオン戦争が終わると、イギリス陸軍は大規模な軍縮に直面する。多くの連隊は戦時拡張した第二大隊以降の大隊を解体した上で、第一大隊を定数以下にて維持することで、連隊の存続を計った。

もちろん、それでも連隊を維持できなかった部隊もいた。最盛期には135数えた連隊の内、戦時拡張連隊とされるのは、第七十八以降の58個の連隊で、この内、第九十四から第百三十五連連隊までの40個連隊は、「ライフル旅団」へと再編された第九十五ライフル連隊を除き、1820年までに全て解体された。

そんな中、元より臨時編成の大隊が生き残れる余地があるはずもなく、各地にて編成されていたいくつかの分遣隊大隊は終戦後、即座に解体されることとなる。

ナポレオン戦争以前にも分遣隊大隊が編成されることがあったように、以後も分遣隊大隊は必要に応じて編成された。主たる利用先は東インド会社のインド制服事業であり、ここにて幾度か編成されることがあった。特にセポイの乱においては、ナポレオン戦争ぶりの二個大隊編制となり、激戦となったラクナウ攻防戦に参加した。

しかし、戦争が巨大化するにつれ、遠征軍の規模は徐々に拡大していき、遠征単位は大隊より上の旅団、師団単位となっていった。連隊は大隊を募兵・訓練するものという制度そのものは変わらなかったが、大隊を野戦にて臨時編制する必要性は薄れていった。

また、連隊そのものも変わっていた。

1864年のカードウェルの改革により、連隊の募兵地域が固定化され、そして、1881年のチルダースの改革により連隊が廃統合された上で、連隊が二個戦列大隊と二個民兵大隊、そして1908年に国内軍(Territorial Force)が設立させると第二大隊以降の募兵大隊的側面は薄れ、正規軍の大隊は全て戦闘大隊となった。

英軍の制度上、連隊は依然、全ての中核であり、伝統の起点であったものの、大隊というのは逆に没個性化を勧めていった。今となっては、全ての大隊はほぼ同一の組織を保ち、そして何れかの連隊に所属している。名無しの大隊とは、最早制度上、あり得ないものとなっていった。


このような特殊な制度の上でのみ成立し得て、なおかつ短命に終わった、分遣隊大隊の終焉に冠し、タラベラにて叙勲され、ウェリントン公となった、ウェルズリーは、戦闘後、こう書き残している。

遠征軍指揮官は、二つの分遣隊大隊を失うことを悲しく思う。

アーサー・ウェルズリー、ウェリントン公爵

ウェリントン公は、彼らが失われる最後の時、彼らを、彼らが所属する連隊でもなく、彼らを、彼ら自身、分遣隊大隊として称える文を残した。

それは、連隊旗すら掲げられぬ大隊に与えうる、最大の、賛辞であった。

参考文献

Allan Mallinson, "Light Dragoons: The Making of a Regiment"
Allan Mallinson, "The Making Of The British Army"
Andrew Bamford, "Sickness, Suffering, and the Sword: The British Regiment on Campaign, 1808–1815"
C. T. Atkinsons, "The "Battalion of Detachments" at Talavera"
James Lawford, "Wellington’s Peninsular Army"
Richard Holmes, "Redcoat: the British soldier in the age of horse and musket"
Robert Burnham, "The British Battalions of Detachment in 1809" 
https://www.friendsofthesuffolkregiment.org/the-suffolk-regiment.html

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