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取り残されながら追いついて:スペイン内戦における騎兵の活躍

スペイン内戦は、戦間期の戦争の中でも、最も戦間期のらしく、旧時代と迫るくる新時代の戦争様式が相混じった戦争であった。

片やユンカース爆撃機が空を飛び急降下爆撃を行い、戦車や装甲車が平原を前進し、無線にて指揮された砲兵が援護射撃をする場面がある一方、機関銃すらなく、最大火力が手榴弾であり、銃剣にて納屋を取り合うような、前近代的な場面も存在した。

そのような様式が斑色に混じった戦場にて、時代に取り残されつつあった騎兵が、その騎兵的精神にて間隙を見つけ最後の輝きを見せたのも、また一種の必然であった。

スペイン内戦前のスペイン騎兵

結局のところ、スペインにて最も有名な騎兵が、それを馬鹿にする存在なのは偶然ではない。ドン・キホーテが示したように、スペインは騎兵が活躍できる土地ではなかったのだ。

それを示すように、スペインの歴史で騎兵が登場する機会は少ない。スペインの軍事的黄金時代はテルシオ時代の重歩兵であり、その後のスペイン継承戦争やスペイン独立戦争でも、活躍したのは戦列歩兵やゲリラなどの各種歩兵であった。

また、他国がスペインへ戦争を持ち込んだ際も騎兵が活躍することは稀であった。多くの場合、各国もスペインでの戦争には軽歩兵を中心とする軍を派兵し、ナポレオンなども自らがスペインに出向いた時を除き、専業騎兵をスペインに派遣することを避け、もっぱら下馬歩兵でもある竜騎兵を用いた。

この理由として考えられる要素は幾つかあるが、最も支配的であると考えられるのは地形的要因である。スペインにも平原はあるが、中央ヨーロッパと異なり肥沃でない荒野であるため、重要な戦線が気づかれることは稀で、人が住まう地域は、山がちな地域、あるいは湿地であり、騎兵の戦術的運用に適さなかった。その足の早さは助けではあったが、地形は圧倒的に歩兵の為の戦場であり、歴史的に、スペイン軍の騎兵は多少の乗馬戦闘の訓練も受けていたものの、下馬戦闘を主として教育されていた。

それは、戦争がマスケットからライフル銃へと変わった二十世紀初頭でも変わらなかった。戦争前夜、スペインには一個騎兵師団(第一騎兵師団)と四つの独立騎兵連隊、そしてモロッコ騎兵連隊が存在した。各連隊は三個騎兵大隊と一個機関銃大隊からなり、一個騎兵大隊にはカービン銃と三丁の軽機関銃、約一個歩兵小隊と同等の火力、が与えられた。内戦を通じ、騎兵連隊は火力不足に苦しむこととなり、40mm、60mmの迫撃砲や果てや対戦車砲、対空砲などで火力を増強することとなった。師団は連隊よりは火力があり、一個バイク大隊と一個装甲車中隊、騎兵砲大隊があった上に、三個中隊の75mm砲で増強されていた。そして、先に述べたように、これらの部隊は基本的に、移動では騎乗するものの、戦闘では下馬戦闘を行うよう教育されていた。

また、厳密には軍ではないものの、スペインの武装警察である治安警備隊ならびに都市武装警察にも合計十一個の騎兵大隊が存在した。

戦前のスペインの騎兵部隊において、第一騎兵師団の師団長、ホセ・モナステリオ・イトゥアルテ(José Monasterio Ituarte)は特記に値する。彼は、モロッコ戦役にて頭角を現した将校の一人で、モロッコでフランコと共に戦功を積み、最終的には彼の元で働き、その関係性はスペイン内戦でも生かされることになる。イトゥアルテは勇敢で騎兵的な冒険心にもあふれているが、信仰深い側面もある人間で、生涯を騎兵科に捧げた騎兵の専門家でもあった。スペイン人にしては口数が少ない上、「英国的な」皮肉も言うような側面もあり、現実主義と理想主義の中庸のような彼は、正しくこの時代のこの戦争に騎兵を率いるのに適した人間であった。スペインの最初の飛行家でもあった彼は、先進的な技術、特に戦車、に騎兵が取って代わられることを予期しており、騎兵部隊の近代化を促進していた。しかし一方、スペインの工業的後進性を踏まえると、騎兵にもまだ出番があると正しく認識しており、現行装備での師団訓練も怠っていなかった。彼の努力は、この内戦中、報われることになる。

スペイン内戦の序盤における騎兵:伝統的役割の復活

内戦が勃発すると、軍の騎兵連隊の多くはフランコ側としてに合流する一方で武装警察のほとんどは現政府に与した。

フランコ側には、第一騎兵師団、一個独立騎兵連隊、一個治安警備隊騎兵大隊、そして当然のことながら、モロッコ騎兵連隊が参戦する一方、政府側には三個独立騎兵連隊と十個の治安警備隊ならびに都市武装警察の騎兵大隊が参戦した。

しかし、開戦時点で戦線と部隊の所在地は入り乱れており、またクーデターがよく練られたものでもなかったことに起因し、部隊のそれぞれの支持母体への合流はスムーズに行われなかった。初期の混乱により、共和国側の支配領域にてフランコ側として参戦した第一騎兵師団の第二旅団ならびに一個独立騎兵連隊、一個治安警備隊騎兵大隊は即座に包囲、殲滅されることとなった。

初動における混乱が落ち着き、戦線と呼ばれるものが形成され始めると、騎兵はそのより伝統的な任務、偵察、側面防護、後方襲撃などに活用され始める。第一次世界大戦の戦訓は十分に学ばれており、塹壕戦などが気づかれている陣地正面から騎兵が突撃するような用法をされることは稀であった。また、その必要もなかった。4000kmにも及んだスペイン内戦の戦線は、第一次世界大戦よりもずっと戦線の密度が低くかった為、十分に機動の余地があり、小規模な騎兵による後方の襲撃は十分実用足り得た。

この時期において、開かれた地形における騎兵の襲撃は以下のような流れにて行われた。5m間隔にて散開した兵(通常は下馬だが、乗馬する場合もあった)3、4人はそれぞれ班を組み、これが一班、あるいは二班が集まった分隊が三つほどで分かれて前進し、これらを全体としてブローニング軽機関銃で武装した軽機関銃隊が援護した。

これはナポレオン戦争時の乗馬騎兵襲撃の派手さはなかったが、近代火器の前でも十分安全に前進することができる優れた手法であり、後方連絡線の警備に残された少数の部隊に対しては十分効果的であった。一方で、このような消極的な手法の活用は、近代火器の火力下では最早騎兵が自由に機動できる存在ではないことも告げていた。

アルファンブラの戦い:スペイン騎兵最後の輝き

しかし、機会と状況に恵まれれば、騎兵はまだ輝き得る存在であった。それを証明したのが、アルファンブラの戦いにおける、ホセ・モナステリオ・イトゥアルテ少将麾下の第一騎兵師団の活躍である。

共和国側は軍事的な理由よりも象徴的な勝利を得るために、テルエル県の県庁所在地であるテルエルを攻撃した。テルエルの戦いの始まりである。

この共和国側の攻勢に対し、フランコは即応部隊として、伝統的な機動部隊である第一騎兵師団を送ると同時に、テルエルでの反攻を行うための戦力の集積を始める。

第一騎兵師団がテルエル戦線に到達した頃にはテルエルは既に陥落した後であった。また、第一騎兵師団とほぼ変わらない日付にて鉄道輸送された歩兵師団の援軍が到着し始めると、第一騎兵師団は対して戦闘を行わないまま側面警護の任務に回された。

これらの新しく投入された部隊は戦線の安定化に成功し、共和国軍側の前進は停止した。それどころか、テルエル方面の共和国軍戦力を過剰に見積もって援軍を送ったフランコ側はテルエルにて戦力的優位を得ていた。これを好機と見たフランコは、戦線に対しテルエル奪還の為の反攻を命じる。

11個歩兵師団と1個騎兵師団がテルエルを守る共和国軍二個師団の正面に展開された。作戦としては、五個師団のモロッコ軍団が北側より、同じく五個師団のガリシア軍団が南側より、テルエルを挟撃し、奪還する、というものであった。第一騎兵師団は第五師団と共に予備を形成し、両軍団の側面を守ると同時に、残された敵のポケットの鎮圧が任務とされた。

一方、テルエル防衛隊の共和国側戦力は第四二歩兵師団、ならび第二七歩兵師団であり、これら二個師団の六個旅団の内、五個旅団は主攻勢方向とされた南を向いており、北には一個旅団、第八二旅団が存在したのみであった。

また、共和国側はこの他にも、第六六歩兵師団、第三九歩兵師団、第五二歩兵師団、ならびに第一九歩兵師団(の一部)をテルエルの東に配置していたが、これらは戦闘に介入するにはあまりにも遠すぎた。

強力な航空支援と、圧倒的とも言える航空支援の元開始されたこの反撃戦は、初日にて大成功を納める。南側では共和国側の戦線に穴を開き、北側の少数部隊は数的不利を察し、後退を始める。一方、追撃するフランコ側も第一次世界大戦同様、歩兵のペースでしか前進できず、戦果の拡張に苦しむ。この解決の為、第一騎兵師団は翌日、より抵抗が弱い北側前線へ投入されることとされ、前進の命令が下る。

翌日、濃霧の中、集結地点へ騎兵師団は前進し、直ぐ様一個大隊が前面の偵察に送られる。この大隊は右側に後退中の敵を視認し、これを攻撃する。結果、「1600名ほどの捕虜」の戦果を上げることに成功する。

本体が到着すると、イトゥアルテ少将は、師団を二個の隊列に分け、前進させる。しかし、前進途中に正面に敵の陣地を視認し、前進を止める。

イトゥアルテ少将はこのまま前進を続ければ、西部戦線の初期にて塹壕戦との遭遇戦を予期なくされた騎兵と同じ命運が待っていることを認識し、別の案を考え始める。幸い、彼の手元には先の偵察の『戦果』の結果、自らの右側面ががら空きであるとの情報があり、また、その方向が敵連絡線の方向、すなわち、敵の後方に当たるという認識もあった。イトゥアルテ少将は騎兵的精神の発露を決める。彼は師団を右向きに迂回させ、敵の後方から陣地に対し乗馬襲撃を行うことを決断する。

この襲撃は大成功に終わる。50mを切るまで共和国側の陣地は騎兵師団の接近に気づかず、会敵した頃には既に全てが手遅れであった。スペイン騎兵による史上最後の乗馬襲撃は、共和国側陣地を蹴散らし、テルエルまでの道を切り開くことに成功した。

スペイン内戦後期:諸兵科連合の萌芽

しかし、アルファンブラの戦いが終わると、スペイン軍の騎兵はより伝統的な二次的任務を与えられることになる。第一騎兵師団は敗残兵の追撃による戦果の拡張と残されたポケットの処理という任務に投入され、これにて重要だが、地味な戦果をあげる。

戦争の中期、戦線の長さが縮小し、戦闘が第一次世界大戦のような包囲戦と塹壕戦が主たる戦争になると、またもや前線での騎兵の役割は消滅し、騎兵はナポレオン戦争以来スペインでの騎兵の主任務となっていた後方でのゲリラ狩りに勤しむこととなる。

しかし、後期になり、共和国側の戦力が大きく疲弊し、戦線に流動性が復活すると、騎兵の任務がまた復活する。敵の抵抗が瓦解した地域における高速な戦果の拡張において、騎兵を上回る兵科は工業化が不十分なスペインには存在しなかった。

しかし、戦争も後期になると、瓦解した戦線における少数部隊でも、機関銃や歩兵砲などを持っていることがあり、これらは騎兵にとっては大いなる脅威であった。これらに対抗する為に、騎兵の側も、装甲車や戦車などとの諸兵科連合を開発することになる。

一般的な流れとしては、道路を戦車が進む一方、騎兵たちはそれに並行して前進するとされた。また、敵の抵抗と接触すると、戦車は停止し反撃する一方、騎兵は直ちに下馬し、また、騎兵砲を展開するものとされた。更に、もし敵の抵抗が十分大きい場合、これら接触した部隊が歩戦協同にて正面から攻撃を仕掛ける間に、騎兵の別部隊は機動部隊として、敵陣地の側面ならびに後方から攻撃を仕掛けるものとされた。

これらの戦術はフランコによるバレンシアの征服、カタルーニャの征服にて大きく活用され、崩壊する共和国側戦線の高速な蹂躙に寄与した。

これらの活躍の結果、騎兵部隊はまだ実用の価値ありと判断され、戦争の最終段階にて第二騎兵師団が編成され、投入されることになる。第二騎兵師団は戦争中、ほとんど抵抗が行われなかった最終攻勢に参加したのみでほとんど実戦を経験することはなかった。しかし、この師団が作られたという事実が、騎兵がこの戦争にて活躍したという事を物語っていた。

戦後:スペイン騎兵の終焉

スペイン内戦がフランコ側の勝利に終わると、当然のことながら軍は大幅な軍縮に直面する。最終段階にて作られた第二騎兵師団は即時解体され、第一騎兵師団も連隊数が縮小される。

しかし、縮小の一方で、近代化の歩みも、遅々であるが、進められた。戦後残された一号戦車ならびにT-26により騎兵師団はほそぼそと近代化をしていった。そして、第二次世界大戦も終わり、アメリカの援助が来るようになると、大幅な近代化が進められる。1953年に第二次世界大戦の余剰のジープやM24、M47などが到着すると、師団は一気に機械化し、スペイン軍で最初に完全自動車化された部隊となる。

しかし、この事を師団近代化の最大の功労者が知ることはついぞなかった。彼の騎兵師団が看取ることなくして、その前年の1952年に、ホセ・モナステリオ・イトゥアルテ少将は息を引き取る。その変容を知ることはなかったとは言え、近代化を推進していた彼ならば、それを知り得たら、満足したことであろう。

参考文献:
http://tankfront.ru/neutral/espana/cavalry.html
https://topwar.ru/175125-grazhdanskaja-vojna-v-ispanii-konnica-i-tanki.html

Google翻訳しながら読んだやつ
https://serhistorico.net/2020/02/09/alfambra-la-ultima-carga-de-la-caballeria-espanola-antonio-gascon-ricao/
http://caballipedia.es/Divisi%C3%B3n_de_Caballer%C3%ADa
https://www.abc.es/historia/abci-episodio-mas-insolito-guerra-civil-ultima-carga-caballeria-historia-espana-202109140032_noticia.html?ref=https%3A%2F%2Fwww.google.com%2F

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