『大祖国戦争における空軍の役割』著:アレクサンドル・エフィモフ空軍元帥

作者紹介

本日、惜しくも偉大なるソビエト連邦最後の指導者であるゴルバチョフ書記長が亡くなった。8月31日とは忌みすべき日だ。ちょうど十年前の今日にも偉大なる英雄が亡くなった、アレクサンドル・エフィモフである。アレクサンドル・エフィモフ空軍元帥(Александр Николаевич Ефимов、1923年2月6日~2012年8月31日)は1984年から1990年に渡りソ連空軍最高司令官を努めた人物で、失敗に終わったソ連のアフガン侵攻期間中のソ連空軍最高司令官であった。91年のソ連8月クーデターの際には、当時ソ連空軍で最高位の現役将官ながら積極的介入は行わず、後任のソ連空軍最高司令官であるシャポシニコフ大将の空軍はクーデターに参加しないという方針に消極的賛成の立場をとった。しかし、エフィモフ空軍元帥はソ連空軍最高司令官としての経歴もさながら、より輝かしく記憶されているのが彼の第二次大戦中の戦績である。IL-2部隊の指揮官でありパイロットであったアレクサンドル・エフィモフ少佐は大祖国戦争中、222ソーティーの戦闘任務を率い、麾下の部隊は85機の敵機を地上にて撃破した。(単一部隊の戦果としてはソ連軍最多)個人としても、エフィモフは対地上戦闘で28機の敵機、9両の鉄道車両、65門の各種砲、47台の戦車を撃破し、空戦で7機の戦闘機を撃墜した。(内戦闘機6機は協同)

本文はエフィモフ空軍元帥がソ連空軍最高司令官の任期中、1986年にモスクワで開催された『大祖国戦争における空軍の役割1941-1945』と題された空軍軍事科学学会において発表した研究で、学会の表題となる研究である。

『大祖国戦争における空軍の役割』アレクサンドル・エフィモフ空軍元帥

大祖国戦争における空軍の役割は、1945年8月19日付の赤軍最高司令官命令第51号に示されている。

『ナチス・ドイツに対するソ連国民の大祖国戦争において、わが航空は祖国に対する義務を立派に果たした。祖国の栄光ある鷹は、熾烈な空戦で自慢のドイツ航空を打ち破り、赤軍の行動の自由を確保した(中略)赤軍全体と共に、空軍は装備と人的資源を破壊することにより、敵軍に決定的な打撃をに与えた。我が勇敢な航空部隊の巧みな行動は、常に地上部隊の成功に貢献し、敵の最終的な敗北を達成するのに役立った。(中略)戦勝国民であるソ連国民は、そのパイロットの軍事的栄光を当然に誇りに思う。』

1945年8月19日付赤軍最高司令官命令第51号

これが達成可能であったのは、戦前から大祖国戦争にかけて、共産党が空軍に格別の関心を寄せていたおかげである。戦争前夜、党と政府は空軍を発展させ、その戦闘能力を高めることを目的とした数多くの改革を決行した。当時のソ連の軍事ドクトリンを考慮し、将来の戦争の作戦における空軍の使用が考えられていた。

戦前ソ連軍事芸術(советского искусства)における作戦術の性質とそれにおける空軍力の使用について:戦争前夜の空軍の状況

戦前の数年間は、戦争初期における戦闘の問題にかなりの注意が払われていた。これらの問題は、軍事雑誌で討論され、著名な軍事指導者や軍事理論家の М. Тухачевского(トゥハチェフスキー), Р. Эйдемана、В. Меликова、Е. Шиловского、А. Лапчинского、В. Хрипина などが参加していた。

攻勢は、軍事行動の主要かつ決定的な戦術であるとみなされていた。我が国で戦前期に開発された縦深攻勢作戦の理論は、ソ連軍事術の優れた成果であった。この理論の本質は、航空、地上、空挺部隊の火力と打撃力を飛躍的に増大させた前線陣形を用いて、敵の作戦縦深の全体に打撃を与え、破砕することであった。同時に、航空は戦場で地上部隊を支援・援護する強力な機動手段であり、作戦縦深における敵目標を破壊する主要な遠距離手段であるとされた。

『戦闘航空部隊は地上部隊と連携しながら(中略)、強力な打撃力で敵火力を制圧し(中略)、戦車や歩兵の攻勢に同行し、砲兵、部隊の集中、適切な予備を制圧する』

赤軍野戦教範(1941年)

ソ連の軍事学は、攻撃作戦の理論の発展とともに、防御作戦に必要な組織と戦術も研究していた。当時、軍レベルでの防御作戦の理論が、最も十分に研究されていた。戦線防御作戦(訳注:ソ連軍における部隊規模の前線をここでは意味している。西側でいう軍集団規模の部隊。以下、部隊規模の前線は太字表記)、さらには戦略的防御については、十分な研究がなされていなかった。戦線が守備につくのは、例外的な場合に限られると考えられていたからである。

戦前の見解によれば、戦争の緒戦において、空軍の任務は、敵空軍力をその根源元(訳注:おそらく敵飛行場の意)で破壊し、また、敵の軍隊の動員を混乱させることであった。敵の経済、行政、政治の中心を攻撃することが想定されており、これらは緒戦の経過のみならず、戦争全体の帰趨に影響を与えるものであった。

敵航空集団の破壊、鉄道・道路・海上・河川輸送の妨害、軍事・経済拠点の爆撃は、前線航空部隊と長距離爆撃機の部隊、ならびに沿岸地域では海軍所属の航空部隊、が参加する特殊航空作戦を実施する計画であった。

制空権の理論は、戦間期の局地的な武力衝突や第二次世界大戦のポーランド・フィンランド戦で得られた経験を踏まえて構築された。制空権をめぐる戦闘は、軍事作戦から切り離されたものではなく、全体の一部とし て考えられるようになった。赤軍の野戦教範案では、次のように強調されている。

『空軍の主な任務は地上軍の成功を促進し、制空権を確保することである。』

赤軍野戦教範(1941年)

制空権を巡る戦闘は、敵の航空集団、航空燃料・弾薬、空軍産業の破壊、ならびに敵パイロット及び航空技術者の組織的訓練の阻害より行われるとされた。

戦争における航空戦力の役割がますます大きくなることを考慮し、空軍は軍隊の独立した一部門となることが決定された。その編制は以下のようなものであった。
・空軍最高司令部:長距離爆撃軍
戦線:軍管区航空軍
・軍:諸兵科軍空軍
・軍団:軍団飛行隊
数の内訳としては、最高司令部所属の航空機が 13.5%、戦線所属は 40.5%、軍所属は 43.7%、軍団所属は 2.3% であった。航空部隊の機種の内訳を見ると、一例として西部軍管区では、戦闘機が59%、爆撃機が31%、襲撃機が4.5%、偵察機が5.5%であった。

共産党の施策が実行された結果、ナチス・ドイツがソ連を攻撃するまでに、ソ連空軍の戦闘力は大きく向上した。79の航空師団と5つの航空旅団が編成された。戦術的な主要編成は、主に混成編成の航空師団であった。航空連隊の数は、1941年6月までに80%以上増加した。(1939年初頭と比較)

開戦時、西部国境軍管区の麾下には、32の航空師団、119の航空連隊、36の軍団航空隊が含まれていた。西方の長距離爆撃機は、4つの航空団と1346機の航空機からなる1つの独立した航空師団によって代表されていた。これは長距離爆撃機は他の師団と独立した作戦戦略任務を遂行する為の処置であった。

ソ連が攻撃されたとき、ドイツの航空産業は新型の航空機を量産していたことに注目すべきだろう。一方、我が国の航空産業は、新型航空機生産そのものを熟練する途上にあった。戦争が始まるまでに、Yak-1、MiG-3、LaGG-3、Pe-2、Il-2の合計2739機が生産された。このうち、半数強が西部国境軍管区の空軍に属していた。しかし、配属先の航空連隊はこれら新型の戦闘機を使用した戦術の開発を始めたばかりであった。

大祖国戦争は、戦前、戦争における航空の役割と意義を制定したソビエト軍事科学に対する大いなる試練となった。それらの多くは、間違っていなかった。

制空権の奪取に向けて

制空権の確保は、全ての戦争において不可欠な部分であり、ソ連空軍の主要な任務であり、あらゆる作戦が成功するにおいて前提とされる条件の1つである。

ソ連空軍は、時には独立しながらも、多くの場合陸軍、海軍と緊密に協力し、陸、海、空の領域にて敵を撃退することに成功した。その行動によって、彼らは、戦争の経過と結果に大きな影響を及ぼした。空軍の直接的な関与により、大祖国戦争の様々な時期にソ連領域内で活動するファシスト・ドイツ軍の「北部軍集団」「中央軍集団」「南部軍集団」「ドン軍集団」「北ウクライナ軍集団」「南ウクライナ軍集団」「A軍集団」「B軍集団」「ヴィスワ軍集団」はソ連軍に対し大敗を喫した。

バレンツ海から黒海まで至る独ソ戦の戦線全体で繰り広げられた史上空前の緊迫した空戦は、各方面の反撃による決定な打撃という作戦目標により、妥協のない戦いが展開された。第二次世界大戦最大の航空戦がここで行われ、ナチス・ドイツ空軍は大敗北を喫したのである。

ソ連軍のパイロット達は、開戦時の困難で複雑な状況にもかかわらず、すべての戦略的方 向にて大胆に行動した。このことは、かつてのファシストの将軍や将校たちでさえ認めざるを得なかった。『世界大戦 1939-1945(Мировая война 1939-1945 гг.)』にて彼らはこう書いている。

『(訳注:緒戦における)ドイツ空軍の損失は、一部の人が考えているほど軽微なものではなかった。最初の 14 日間の戦闘で、その後のどの期間のどれよりも多くの航空機が失われた。1941年6月22日から7月15日の間に、ドイツ空軍は全種類の航空機にて807機、7月6日から7月19日の間に477機失ったのである。これらの損失は、ドイツ軍の奇襲にもかかわらず、ロシア軍が決死の抵抗を行うための時間と戦力を集められたことを示している。』

『世界大戦 1939-1945(Мировая война 1939-1945 гг.)』

愛する祖国の自由と独立を侵す敵への憎しみに燃えて、わが国のパイロットは開戦直後から高い航空技術、勇気と英雄性を発揮し、自己犠牲の精神で戦った。1941年6月22日(訳注:開戦初日)には、すでに16回もナチスの航空機に対して体当たりを決行しているのである。したがって、М.П. Жуков、С.И. Здоровцев、П.Т. Харитоновが大祖国戦争最初のソ連邦英雄という名誉ある称号を与えられたのは、ごく自然な成り行きであった。

ソ連空軍は戦中、三つの主目標の達成を目指した。戦略的制空権の確保、地上軍と海軍の航空支援と援護、空中偵察である。また時折、敵陣の奥深くにある戦略目標の撃破も行った。

戦略的制空権の確保は、ソ連・ドイツ戦線における戦争の不可欠かつ不可分の部分であり、ソ連空軍の最優先目標であった。前線航空部隊だけでも全出撃回数の35%以上がこの任務に費やされた。戦略的制空権の確保は、戦争全体の遂行の為、ソ連軍最高総司令部の総指揮のもとに実施され、次の二つの期間を含んでいた。

制空権の奪取に向けて
第一期:1941年6月22日から1942年11月18日

最初の期間は1941年6月22日から1942年11月18日までの期間を示し、激しいい空戦、ソ連空軍の再編・装備充実、および部隊の組織構造の改善、航空部隊の集中管理の役割の拡大、制空権と航空支援戦術の効果的な方法の模索によって特徴付けられる。

戦争当初、ソ連司令部はナチス空軍の大規模空襲に対して、戦闘機による積極的な攻撃的航空戦と各戦線の領域内における敵飛行場への定期的な攻撃で対抗していた。このような強行策は、しばしば前線の情勢に大きな影響を及ぼした。1941年10月12日から13日にかけて、ナチス空軍はモスクワ防衛部隊と防衛設備への攻撃を準備していた。この攻撃を混乱させる目的で、ソ連航空機は二十の敵飛行場に対し大規模空爆を行った。結果、西部戦線区画におけるナチス空軍の活動は、著しく低下した。

ソ連空軍の攻撃力がある戦略方面にて増強されると、状況が許す限り、隣接する戦線の航空部隊、長距離航空機を有する部隊、海軍航空隊、および防空隊によって大規模な攻撃が行われるようになった。これらの行動は、場合によっては航空作戦という形をとった。

この時期の戦略的制空権を巡る戦いにおける重要な段階は、モスクワの戦いとスターリングラードの戦いであった。これらの戦いにおいて空軍は積極的に行動を行った。空戦は、敵の質的・量的優位という、我々にとって例外的に困難な条件の下、行われた。最高司令部は、この点を考慮して、大規模な航空部隊を限定された正面に集中させることにより、制空権を獲得することを試みた。その結果、700 機にも及ぶナチス二個航空艦隊に、約 1200 機の戦闘機からなるソ連航空隊が対抗することになった。これが、空戦の主導権を徐々にソ連空軍に移行させる主な前提条件となった。1941年11月末には、大祖国戦争で初めて、作戦規模制空権を得ることができたのである。こうして、地上軍を反攻に移行させる条件が整った。ナチス航空の無敵神話は払拭された。そして、モスクワの空で初めて夜間飛行と高高度飛行を行ったソ連のパイロット В.В. Талалихине と А.Н. Катриче、そして В.А. Шишове, А.Ф. Локтионове, Ф.М. Фаткулине, Е.М. Гор6атюке やその他の勇気ある航空戦闘員の栄光が全世界に広まったのである。

1942年の冬から夏にかけて、戦略的制空権をめぐる緊迫した闘いが続いた。しかし、それは次第に別の性格を帯びるようになった。ナチス司令部は、装備と熟練パイロットに多大なる損失を被ったため、戦線全体における航空の同時活発な作戦を放棄し、主要な方向だけに努力を集中させることを余儀なくされた。

1942年の夏には、制空権争いの主戦場は戦線の南翼に移っていった。スターリングラード付近の防衛戦が始まるまでに、ファシスト・ドイツ司令部は1200機の航空機をこの方面に集中させた。これにより、ソ連空軍に対して数量の上で二倍以上の数的優位が達成された。しかし、このような状況下でも、ソ連空軍の行動は決定的であり、パイロットは英雄的で無私の精神を示した。スターリングラード上空での戦いは、ファシストの禿鷹共にとって忘れられないものとなった。ここに、В.Д. Лавриненкова、А.А. Алелюхина、И.Н. Степаненко、Амет-Хан Султанаら多くのパイロットの輝かしい英雄への道が始まった。何倍も格上の敵との激戦に果敢に臨み、敵を恐怖に陥れ、破壊し、あるいは恥ずべき退却へ追い込んだのは彼らであった。スターリングラードのパイロットは、ガステロ(Н.Ф. Гастелло、訳注:後述があるが、独ソ戦で最初の体当たり攻撃を行ったパイロット)の偉業を忘れなかった。戦闘機パイロットのН. Абдирова、А.А. Рогалъского、そして一度の空戦で二度も敵機に突っ込み、自分の飛行場への着陸に成功したВ.Е. Пятова(訳注:V.E.ピャートフの空戦については後述する)、爆撃の名人А.И. Молодчего、В.С. Ефремова、В.В. Сенькоら勇士ぶりも決して忘れられてはいけない。またИ.С. Полбинаが革新的な戦術を行ったのもこの時期であった。

大祖国戦争の第一期におけるソ連空軍の積極的な行動の結果、ファシスト・ドイツの空軍は大敗北を喫した。ナチス・ドイツとその同盟国は、1万5700機の航空機と、最も経験豊富な熟練搭乗員の大部分を失った。同時期に、第二次世界大戦の他のすべての戦域で、彼らの損失はわずか 3400機、すなわち 4.6分の1に過ぎなかった。

制空権の奪取に向けて
第二期:1942年11月19日から1943年8月23日

第二期は、1942年11月19日から1943年8月23日までの制空権をめぐる闘いである。この期間の特徴は、敵航空隊に対する質的・量的優位、より決定的な闘争形態の使用、すなわち最高司令部本部の計画に従って行われる航空作戦ならびに大規模な航空戦、司令部要員の専門的訓練および飛行要員の戦闘技能の強化であった。この時期の戦略的航空優勢をめぐる闘争の重要な段階は、スターリングラード付近のソ連軍の反攻における航空作戦、クバン上有空での航空戦、そして、クルスクの戦いであった。

ソ連軍最高総司令部は、スターリングラード付近でのわが軍の反攻の成功、制空権を獲得することに直接的に依存することとした。1942年11月12日、ソ連空軍最高司令官はスタフカ代表のソ連元帥ジューコフ(Г.К. Жукову)に宛てて手紙を出した。

『ドイツ軍との戦争の経験は、ドイツ軍に対する作戦は制空権がなければ成功しないことがわかる。(中略)作戦をしばらく延期して、航空戦力の増強を行った方がよい』

この措置により、スターリングラード近郊の航空部隊は1350機まで増強された。また、新型の高速戦闘機La-5、Yak-7bも就役した。同時期に就役したYak-9はBf-109、FW-190などのドイツの新型機との有効な空戦を可能にした。ほぼ同程度の戦力と航空機隊への新型機配備による質的な改善により、反攻作戦の最初の数日間で、ソ連空軍は作戦規模制空権を獲得し、その後、戦略的攻勢作戦の終了までそれを維持することが可能であった。ソ連空軍は、戦争における最大規模の戦略的敵集団の撃破に大きく貢献した。スターリングラード付近の防衛戦と反攻戦において、ソ連空軍は防空部隊と前線部隊合わせ、地上と空中の合計で4,400機以上の戦闘用航空機と輸送機を撃破したのである。スターリングラード戦において、ソ連空軍は、独ソ戦線における戦略的制空権を巡る戦いに激変をもたらした。その後、ファシスト・ドイツ空軍は、主要な作戦における長期間の制空権を握ることはなかった。

大祖国戦争におけるソ連空軍の航空作戦の歴史に、クバンでの航空戦の英雄的な1ページがある。これは北コーカサス戦線で、タマン半島を侵略者から解放し、ドイツ軍A軍集団の残党を撃退するための作戦に必要不可欠なものであった。

よく知られているように、敵はタマン半島の飛行場を根拠地とし、北コーカサスの部隊と工場に対して作戦を行っていた。クリミア、ウクライナ南部、ドンバスには、第四航空艦隊の航空機が最大1200機集中していた。これは当時、ソ連・ドイツ戦線で運用されていた全航空機の約40%に相当するものであった。同時に、ファシスト・ドイツ司令部は、主に爆撃機の大量使用に重点を置いていた。一方、この方面でのソ連空軍の航空部隊は、900機の戦闘用航空機を有していた。戦役の過程において、敵はその航空団を絶えず増強した。たとえば、1943年5月26日から6月7日にかけて行われた第三次航空戦の開始時には、その戦闘力はすでに1400機まで引き上げられていたのである。

ソ連戦闘機の戦闘能力の向上を最大限に生かすことができる新しい戦術の使用、パイロットの高い士気と戦闘能力、そして徹底した中央統制は、クバンにおけるソ連航空の勝利の主要な構成要素であった。ここで敵は1,100機の航空機を失うこととなった。このうち、835機が空戦で破壊された。一方、我が軍の戦闘用航空機の損失は396機に達した。

クバンでは卓越した空の戦士達の栄光が鳴り響いていた。А.И. Покрышкина,、Д.Б. и Б.Б. Глинкаの兄弟、В.И.Фадеева、В.Г. Семенишина、Г.А. Речкаловаらである。

クバンにおけるソ連空軍の勝利は、戦略的制空権の戦いを完遂するための重要な前提条件となっ た。1943 年の半ばまでに、敵は航空技術における質的優位をついに失ったことは特記に値する。

戦略的制空権を巡る戦いは、クルスク戦の期間中に最も激しさを増した。ナチス指導部は、戦争は敗北から程遠く、軍が置かれた窮状は夏の大攻勢によって打開することができると考えていた。その過程でソ連軍の主力部隊を撃破し、戦略的主導権を取り戻し、戦局を自分たちに有利な方向に転換させることを望んでいた。全てが危機に瀕していた。ヒトラーの軍司令部は、クルスク方面に最も戦闘力のある航空部隊、すなわち第四および第六航空艦隊を集中させた。それを補強するために、ドイツ、フランス、ノルウェー、ポーランドから約400機の航空機が追加投入された。当時、ソ連・ドイツ戦線にいた敵機2980機のうち、2000機以上がクルスクの攻撃作戦に参加する予定であった。

最高司令部本部は、1943年の夏の戦いに向けて軍を準備する一方で、戦略的制空権を巡る戦いを完遂することを格別に重要視した。この目的のために、敵の航空集団の1.5倍を上回る航空集団が創設された。極めて激しい戦いの中で、我が軍のパイロットは空戦と飛行場で敵機3700機以上を撃破した。これは、『城塞』作戦開始時に敵が持っていた航空戦力のほぼ二倍の数である。当時の過酷な戦いの結果、А.Е. Боровых、В.Л. Попков、В.А. Зайцев、И.П. Витковский、И.П. Лавейкин、М.З. Бондаренко、Ф.В. Химичなどの著名なエースの名が歴史に刻まれることとなっった。クルスク上空にて、コジェドゥーブは彼の初撃墜を記録した。(И.Н.Кожедуб、訳注:総撃墜数62機のソ連空軍最大のエース)また、一度の空戦で9機の敵爆撃機を撃墜したА.К.Горовцаの偉業は忘れがたい。А.П. Маресьеваの献身と勇気の前に、我々は頭を下げざるをえない。共産主義の理想に捧げられた強い精神の男だけが、両足を失ってなお、再び戦闘に戻り、撃墜記録を伸ばすことができるだろう。

ソ連軍パイロットの比類なき献身と勇気、そして敵に与えた取り返しのつかない損失は、戦略的制空権を巡る戦いを我が方の勝利へと導くことを可能にしたのである。一般に、ソ連空軍は、二年間の空戦と飛行場において、激しく妥協のない攻撃を行うことで、3万5700機の敵機を撃破した。比較のために、このような数字を挙げる必要があるが、この間、米英軍の戦果は1万機余り、すなわちソ連空軍は3.5倍の航空機を行動不能に陥れたのだ。

闘争の結果は、独ソ戦におけるファシスト・ドイツ空軍の戦闘力の絶え間ない低下によ って証明される。ソ連に対する攻撃の開始時に、ファシスト・ドイツは約 5000 機の戦闘機を保有していたが、1942 年 11 月には 3500 機まで減少し、1943 年 7 月には 2980 機に過ぎなかった。一方、我が方の野戦軍が保有する航空機は絶えず増加していた。1942年末にはすでに約4500機、1943年夏には約1万機になっていた。

戦略的制空権により、ソ連軍は主要な戦略的攻撃作戦を複数の方向から同時の実施可能になり、空軍はより決定的な兵力を集結し、連続した攻撃作戦を行うことができるようになった。逆に、敵空軍はその活動を大幅に縮小せざるを得なかった。この時期から終戦までの間、敵空軍は地上軍を効果的に支援したり、作戦の上空援護を行ったり、我が国の後方奥深くにある対象への爆撃したりすることができなくなったのである。

クルスクの戦いから、ファシスト・ドイツ軍は地上と空中の両方で方針を戦略的防御へと切り替えた。ヒトラーの空軍の防衛行動への移行は、航空部隊の比率の変化にも明確に示されている。戦争当初、ドイツ空軍の58パーセントが爆撃機で、戦闘機は31パーセントにすぎなかった。しかし、1944年末には爆撃機は1/4へ減りる一方で、戦闘機が2倍以上増え、空軍の戦闘員総数の68パーセントを占めた。

ソ連空軍では逆の経過をたどった。戦争当初、前線航空の爆撃機と襲撃機は35.5%を占めていたが、1943年7月1日には、Po-2を含めて約60%を占めるに至った。空軍の戦闘力は、攻撃的な性格を帯びるようになった。打撃部隊がその基幹となった。

制空権が得られると、敵航空隊の損失は急激に増加し、一方、わが国の損失は大幅に減少した。1941年の時点で、航空機1機が損失するまでに行う平均出撃回数は32回であったものが、1943年には72回、1945年には165回と改善した。逆に敵の同様の数値は、1942年には25回、1943年は22.5回、そして1945年には11回へと悪化していった。

戦時中のソ連の戦争術、すなわち空軍の作戦術は、戦線(あるいは複数戦線の集合)の攻撃作戦における地上部隊の航空支援の問題をうまく解決した。1941 年から 1942 年のほとんどの攻撃作戦において、航空部隊の任務は短期間の準備攻撃にとどまっていた。しかし、1942 年から航空攻撃が広く使用され始 めることになったのである。航空攻撃への移行は、一方では敵の防衛の性質の変化、他方では各種戦闘用航空機の戦闘能力の向上が原因であった。航空攻撃の本質は、攻勢作戦の全縦深にわたって地上軍を継続的に支援することであった。これはスターリングラード反攻作戦で生まれ、その後、ソ連軍の攻撃作戦の不可欠な一部となった。

このような前線での攻勢作戦における空軍の作戦領域における使用の理論的発展の原点には、赤軍空軍最高司令官である А.А. Новиков大将、ならびに彼の参謀であるС.А. Худяковым大将とФ.Я. Фалалеевым大将の存在があった事は記録すべき事象である。

航空攻勢の実現において大きな功績を残したのは、航空軍団の司令官たちである。同志С.И. Руденко、С.А. Красовскому、Т.Т. Хрюкину並びにМ.М. Косых、К.И. Тельновым、Н.Г. Селезневымらに率いられた司令部である。

大祖国戦争では、沿岸部での攻撃作戦における航空利用の問題や、前線の防御作戦における航空作戦の組織方法とその実施などについても研究、発展し、実施された。

包囲作戦における空軍力の利用は、特別な言及を行うに値する。スターリングラード付近の反攻作戦、コルサン・シェフチェンコ、ヤッシー・キシネフ、ベラルーシ、ベルリンなどの作戦で、ソ連空軍は円形多区域航空封鎖(круговой многозональной воздушной блокады)の実施方法に関する経験を積み重ねた。編隊による柔軟な機動、包囲の外部および内部戦線における敵の反撃を撃退するための部隊編制、被包囲集団の撃滅の為の大量の航空機の利用などである。長距離航空の主な努力は、作戦中の部隊に対する航空支援の問題を解決するために向けられた。これらは、戦争の情勢と性質から必要とされたものであった。 戦争の期間中、全出撃回数の40.4パーセントが地上部隊の支援のために費やされた。

戦時下における空軍組織の構造改革とその実践

実施された航空軍事作戦の注意深い分析に基づき、空軍の作戦術は空軍の戦闘作戦の最も効果的な形態と方法を開発した。戦闘機の主な使用形態は、(訳注:陸軍の)前線攻防戦の一環としての組織的戦闘作戦、防空作戦、航空打撃、制空戦闘と格闘戦であった。

ナチスの空軍に対する主な損害は、(訳注:陸軍の)戦線での作戦の一環としての空軍の行動により与えられたことがよく知られている。しかし、経験上、(訳注:空軍が単独で実施した)航空作戦も敵機への対応として非常に有効な手段であった。戦時中、この目的のために9回の航空作戦が行われた。

これらは原則として戦略的攻勢作戦の開始前に実施され、その結果に大きな影響を及ぼした。このようなものの一つが、クルスク戦開始前に制空権を奪取を目指し行われたものであった。1943年5月6日から5月8日にかけて最高司令部本部の指示で行われたこの航空作戦はクルスク戦の結果に重要な役割を果たした。本航空作戦は大祖国戦争における最大の航空作戦の一つであり、1200kmの前線にある6つの航空軍(第1、第15、第16、第2、第17、第8)が参加した。作戦中、ソ連のパイロットは1400回以上の出撃を行い、500機以上の敵機を行動不能に陥れた。これは作戦開始時の敵戦闘力の25%に相当する。

この作戦を計画し、実施した経験は、非常に有益である。この作戦は、航空作戦の密かな計画と組織化、特に最初の大規模な攻撃を行う際の奇襲性の達成の必要性が非常に重要であることを示した。航空作戦の結果を見ると、最初の大規模攻撃により撃破された航空機は作戦期間中の42.5%を占めたのに対し、2回目は31.2%、3回目は23.1%、4回目に至ってはわずか3.2%であった。第一次攻撃で破壊された敵機一機につき2ソーティーが必要だったのに対し、第二次攻撃では2.4回、第三次攻撃では3.2回、第四次攻撃では30.2回必要であった。また同時に、敵に損失を与えるまでに我が方が被る損害の量も増えていった。

航空戦闘作戦を分析すると最大の成果が得られるのは、大規模な航空部隊の指揮統制を最高司令部本部に集中し、敵空軍力の空中ならびに飛行場における同時の破壊を目指した場合においてであった。

戦略的制空権が得られると、敵航空集団の撃破を目的とした航空作戦は行われなくなった。これ以降の航空作戦は地上部隊の支援と援護に主眼が置かれた。制空権の維持という課題は、作戦の形を取らない個別の空爆や、戦線作戦の一部として、あるいは空軍単独で航空会戦や格闘戦を行うことで解決された。

大祖国戦争第二期にようやく具体化した戦闘機の戦闘使用形態としての航空会戦(Воздушное сражение、訳注:直訳だと空戦)は、空軍の作戦術の中の新しい要素となった。

モスクワとレニングラードの防空網によりヒトラーの空襲が撃退されたとき、初めて航空会戦の要素が発生した。第二期、第三期(訳注:どこにも書いていないが、1943年8月24日以降から終戦までを示すと考えられる)では、特にクバンの空、クルスク、ベルリン攻防戦などで、広い範囲で行われるようになった。例えば、1943年6月2日、前線航空隊と防空軍の計386機のソ連戦闘機は、クルスク鉄道分岐点に対する543機のドイツ航空機の大襲撃の撃退に参加した。この日、145機のファシストの禿鷹共が撃破された。

航空会戦、ならびに格闘戦において、空軍は4万4千機の敵機を破壊した。航空作戦の分析によると、戦時中に行われた制空戦闘は、熟練パイロットによるものは最も効率良いことがわかった。例えば、ソ連英雄となった戦闘機パイロット達は、合計15000機以上の敵機を撃墜しているが、これはソ連空軍が空戦で破壊した全敵機のほぼ4分の1にあたる。彼らの行った空戦の効果は、平均的なパイロットの3.5〜4倍であった。

同時に、戦術も改善された。戦闘機部隊は、集中攻撃、波状攻撃、一定の空域や回廊などを目標とした独立したサーチ・アンド・デストロイ『遊撃』(охота、訳注:直訳では狩猟。おそらく"Свободная охота"で知られる自由遊撃任務の事)などを行う一方、広範に渡り、敵飛行場の遮断を行った。戦闘機は、防空任務を遂行するにあたり、主に三つの手法を用いた。空中哨戒、飛行場からの迎撃、爆撃機や襲撃機の直接護衛である。戦闘作戦の遂行は主に敵の大規模襲撃の撃退可能性を高める方向で実施された。それらは、任務区域を前線より敵の後方側に移動させ、有利な編隊隊形を用い、部隊を複数の高度にて分割し、様々な戦術目的のグループを作り、ペア、リンクなどといった集団での空戦戦術を改善し、空戦での空中戦闘機動を広く使用する、といった形を取った。

激烈な戦争の発展により、パイロットは戦闘任務の遂行や戦闘隊形を組む上で、敵にとって予想外の新しい戦術方法を常に模索する必要性に迫られた。こうして、爆撃機では急降下爆撃が広く行われるようになった。また、新しい目標への打撃方法も開発された 『ポルビンの風車』(вертушкой Полбина)と呼ばれるものである。襲撃機のパイロットは、新しい戦術的手法である『航空円陣』(круг самолетов)を開発し、広く使用し始めた。これは、襲撃機の目標への継続的な火力投射と、個々の機体(あるいはペアなどのサブユニット)間の相互火力支援を行うものであった。戦闘機による極めて効果的な戦闘隊形は、有名な「ケーキスタンド」(этажерка、あるいはКубанская этажерка/クバンのケーキスタンドとも。訳注:戦闘機のペアを高度差を含んだケーキスタンド状/階段状に形成する陣形)陣形であった。

(訳注:一般的に『ポルビンの風車』と『航空円陣』は同様のものであるとされるが、ここでは明らかに二つの別種のものであるように書かれている。著者の記憶間違いの可能性もあるが、もしかしたら大戦当時は二つの別個の戦術だったのかもしれない。)

航空陣形、編制、部隊の使用形態とその運用手法の開発は、空軍の組織構造の変化と密接な関係下で行われ、新しい航空技術の発展へと繋がった。ソ連の軍事技術は、戦線所属の航空部隊(訳注:本文前半部分にある地上軍の戦線所属の軍管区航空軍を示す)から空軍麾下の航空軍への移行と強力な航空予備軍の創設の必要性について重要な結論を導き出した。戦時中、合計で17個の戦線航空軍と1個の長距離爆撃軍が新設された。大規模な航空作戦母体としての航空軍の創設は、ソ連空軍において新たなる方向性を示した。戦時中に確立された戦線航空軍と長距離爆撃軍の組織構造は、実戦にて自身の有用性を十分に正当化し、結果空軍力は分散から集中へ回帰し、進行中の作戦における航空部隊の機動性を向上させ、安定した中央による統制を可能にしたのである。

大祖国戦争が始まった当初から、スタフカ(訳注:ソ連軍最高総司令部)は、最も重要な地域に航空兵力を集中するために、大規模な予備航空部隊を編成する必要性を感じていた。この航空予備軍の組織構成について、最も受け入れやすい形を見つけるのに、約一年半の歳月を要した。戦闘作戦の実施には、最高司令部予備軍に均質な航空軍団と航空師団を創設することが好都合であることが確認された。(訳注:おそらく戦線などの航空軍団、航空師団と同様の編制であるという意味)航空産業の能力がますます向上し、訓練された航空人材が利用可能になったことで、強力な航空予備隊の編成を実行することが可能になった。1942年末までに11個の航空軍団と1つの独立航空師団が結成され、1943年にはさらに12個の航空軍団と15個の航空師団が結成された。戦時中、合計で30個の航空軍団と27個の航空師団が編成された。空軍における最高司令部予備軍(РВГК)の割合はかなり大きく、1944年後半まで継続的に増加した。大祖国戦争第二期の初めですら25%を占めており、1944年後半には52%に達した。 この期間はまさに、ソ連軍が多くの大規模な戦略的攻勢作戦を連続して行った時期であり、その結果、わが国の領土は完全に解放され、ソ連軍はヨーロッパの人々をファシストの侵略から解放し始めたのである。

作戦規模の任務に使用できる強力な航空部隊と空軍予備の存在によって、ソ連軍は各戦線で必要な航空兵力を確保し、大胆な機動を行い戦力を主方面に集中させ、作戦機を大量に使用して最重要地域の主要課題を解決し、制空権の確保や他の戦略目標の達成を行うことができたのだ。

戦時中の空軍の作戦術の発展は、その使用形態と方法、組織構造、指揮官と飛行要員による戦闘経験の習得という形だけでなく、新しい機種の航空機の装備という形でも行われた。ソ連の航空産業は、戦争の試練に名誉を持って答えた。

戦時中、MiG-3、Yak-3、Yak-9、La-5、La-7、IL-2、IL-10、Pe-2、Tu-2、Pe- 8など、25種類の新型機の量産が開始された。これらの航空機は、その戦闘能力において、ドイツ軍の新鋭機に劣らないばかりか、指標によってはドイツ機を凌駕するものもあった。戦略的制空権を争った1941年から1943年の最も激しい時期に、ソ連では合計で約60,000機の戦闘機が生産されたのに対し、ファシスト・ドイツでは39,000機余りであった。これは、ソビエト空軍がファシスト・ドイツの航空部隊に圧勝した大きな要因である。

戦時中、我が国の航空機産業は112,000千機以上の戦闘機を生産したが、ナチス・ドイツの航空機産業は89,000機しか生産できなかった。

軍事産業の絶え間ない拡大により、空軍と最高司令部は、軍の戦闘機を絶えず増加させることが可能となり、各地域の航空戦力の均衡は次第にソ連空軍に有利に変化していった。1942年11月からは、戦闘力においてファシスト・ドイツの空軍を大きく上回るようになった。それ以来、量的な比率だけでなく質的な優位も常に我々の側にあり、戦略的制空権争いのクライマックスであった1943年7月1日には、3.4:1で我々に有利であった。

大祖国戦争における空軍による軍事作戦の主な成果

ドイツ・ファシズムに対する軍事的勝利は、ソ連軍全体によるの共同努力によって達成された。もちろん空軍が、この勝利に大きく貢献したことは間違いない。戦争初期の困難な条件の中で、我軍は敵の攻撃集団を疲弊させ、出血を強い、それによって攻撃力を低下させ、適切な予備兵力を破壊したのである。空軍の大規模かつ意図的な行動は、攻撃作戦の範囲と決定力を高めることに貢献した。空軍は、敵の作戦・戦略後方の対象に影響を与えられる最も手の長い手段であり、戦術・作戦・戦略次元での偵察を行う主要な手段であった。 

また、航空機は物資の輸送にも広く使われた。パルチザン運動を総合的に支援するために大規模に使用されることもあった。これはあらゆる戦争において初めてのことであった。しかし、戦争の行末と結果に決定的な影響を及ぼしたのは、ソ連空軍が獲得した戦略的制空権であった。

大祖国戦争の間、ソ連空軍のパイロットたちは300万回以上出撃し、様々な口径の爆弾が66万トン以上、敵に投下された。偵察にて撮影された面積は650万平方kmで、これはソビエト連邦のヨーロッパ側の領土より100万平方km広い。

ソ連空軍は、ナチス・ドイツ空軍の敗北に大きな役割を果たしたのである。独ソ戦にてドイツ空軍が動員した5万7千機の内、4万8千機がソ連空軍によって空中と飛行場で破壊されたのである。比較のため、第二次世界大戦中の英米の航空機が破壊したのは3万2800機であり、ソ連機の破壊数の1.7分の1であった。同時に、2万2千機以上の航空機が飛行場で使用不能になった。

戦争の歴史を紐解いても、大祖国戦争でソ連のパイロットが達成した偉業は他にない。

彼らは600回以上体当たり攻撃を行い、34人のパイロットが2回、ソ連邦英雄であるА.С. Хлобыстовに至っては三回行った。1941年6月26日にガステロ大尉が初めて成し遂げたこの偉業は、戦時中、更に502人のソ連軍のパイロットによって繰り返されることとなった。

統計は、よくドライだと考えられている。しかし、歴史上前例のない戦士達、パイロット達の偉業の高みをとらえた統計上の数字を、興奮なしに語ることは不可能である。戦時中、228の航空隊、部隊、編隊は『親衛』へと生まれ変わり、897人が叙勲され、708人が名誉称号を受けた。また、約200,000人の各国の息子や娘達が勲章を授与さた。2420人の最も勇敢なパイロットにソ連邦英雄の称号が贈られた。内、65名は二度授与され(訳注:アレクサンドル・エフィモフ空軍元帥も二度の受賞者である)、ポクルィシュキン(А.И. Покрышкин、訳注:総撃墜数59機のソ連空軍第二位のエース)とコジェドゥーブの二名は、三度授与された。また、最高位の名誉である『ソ連邦英雄』という肩書も29名のパイロットに送られた。それらには、 А.Л. Зубкова、Е.А. Никулина、Е.И. Носаль、Е.М. Руднева、О.А. Санфирова,、.Н. Федутенко、М.П. Чечневаなどが含まれた。彼らの背後には、パイロット、技術者、信号手など、祖国の自由と独立を至上とする専門家たちの最高の勇気があった。英雄たちの不滅の活躍は、歴史の財産となっただけでない。ソビエト国民のすべての世代にとって、彼らは常に愛国的献身と、軍事的義務への忠誠の象徴的な事例であり続けるだろう。

戦時中、主要な軍事指導者は空軍で育った。А.А. Новиков、П.Ф. Жигарев、А.Е. Голованов、Г.А. Ворожейкин、Ф.Я. Фалалеев、С.А. Худяков、Н.С. Скрипко、К.А. Вершинин、С.И. Руденко、С.А. Красовскийなどである。現代の優れたパイロットやナビゲーターが一つの銀河団を形成した。П.С. Кутахов、А.И. Покрышкин、М.Н. Кожедуб、Н.М. Скоморохов、И.С. Полбин、Л.И. Беда、А.Я. Брандыс、И.А. Воробьев、Г.Ф. Сивков、А.И. Молодчий、В.Н. Осипов、В.В. Сенько、Е.П. Федоров、С.И. Кретов、Г.А. Речкалов、Ф.В. Химич、Амет-Хан Султанなどだ。

狡猾な敵に勝利を収めるための最も重要な動機づけとなったのは、ソ連陸軍ならびに海軍の強化と発展を促進した共産党とソ連政府の絶え間ない組織的活動であった。パイロットの高い士気と戦闘的資質を教育するために、多くの作業が行われた。これらの努力は、司令部付参謀、政治機関、党とコムソモール組織が注視するものであり、日々の党の政治活動の過程で達成された。

私たちは、正当な誇りをもって、私たちが歩んできた道、ソビエト空軍の偉大な業績を振り返りうる。大祖国戦争における作戦次元・戦略次元での空軍の使用における広範な経験は、現代の作戦における航空使用の理論と実践をさらに創造的に発展させる為の確固たる基礎となるものである。

出典等

Source: http://militera.lib.ru/h/vvs_1/02.html
あまりにもプロパガンダが強すぎる為、一部文章については割愛。


大祖国戦争において、共産主義はファシストの帝国主義に基づく侵略に抗い、勝利した。現在、プーチンのファシズムと帝国主義に基づいた侵略に、ウクライナは抗っている。自らが帝国主義の侵略者となり、ソ連邦の英雄達は泣いているぞ。プーチン並びにアサドは即刻、ウクライナならびに自由シリアの主権領域より撤兵し、ハーグ裁判所へ出頭、法の捌きを受けよ。

閑話休題:一度の空戦にて二度体当たりを行ったV.E.ピャートフの1942年9月17日の空戦について

1942年9月17日、スターリングラード郊外のタロフカ付近でドイツ軍の偵察機Do-217が発見された。待機中であった第16航空軍第220航空師団第211戦闘機連隊所属のYak-1のペアがこれを迎撃する為、出撃した。ミハイル・カヴン少尉(Михаил Кавун)とその僚機であるワシリー・エフレモビッチ・ピャートフ少尉(Василий Ефремович Пятов)である。

偵察機は高度4,000メートルを飛行しており、出火しながらも、匠に雲を利用した機動を行った。幾度かの攻撃失敗を繰り返した後、ピャートフは敵機に接近し、左尾翼に対し体当たりを行った。破片が飛び散ったが、偵察機は飛び続けた。パイロットは、今度は反対側から二度目の体当たりを試みた。「ホルカ(горка)」(訳注:空中機動の一種。ロールなしの急上昇の事)を行い、垂直尾翼とラダーへプロペラで二撃目を叩き込んだ。それらはきれいに切断された。操縦不能になったドイツ機は急降下し、乗員は脱出できなかった。

ピャートフ少尉は、自ら損傷させた飛行機を出撃した飛行場に着陸させた。

この偉業により、V.E.ピャートフ少尉は赤旗勲章を授与された。

Source:http://allaces.ru/p/episode.php?id=297

訳語揺れとか、解説とか書きたいなとは思ってたのだけれども、8月31日に間に合わなくなりつつなったので、とりま一通り終わったこの時点で完成とします。ちまちまそのうち治すとは思いますが、まぁ、よきなに。ゴルビー、R.I.P.

訳者あとがき

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