Steel Division 2の師団について"126-y L. Gornostrelkovy Korpus"の場合Part.1(に見せかけた第五、第六トナカイスキー旅団の話)

架空部隊かと思っていたSD2の126-y L. Gornostrelkovy Korpus(第百二十六軽山岳歩兵軍団)ですが、ちゃんと実在していました。ツイッターで書こうかと思ったけど、ノートが思ったより長くなったのと、ブログのID忘れたのでとりあえずトゥィトゥァーからすぐログインできるこんなサービスで。

本部隊、ロシア語では126-й лёгкий горнострелковый корпус、まんま第百二十六軽山岳歩兵軍団です。ちなみに私がEugeneが間違えたと思った似た部隊に128-я горнострелковая дивизия(第百二十八山岳歩兵師団)があります。

本部隊は複数旅団をまとめた師団規模の部隊で、核となる旅団は第三十一スキー旅団(31-я лыжная бригада)+第七十二海軍歩兵旅団(72-я морская стрелковая бригада)からなる(これもゲーム内説明どおり)。あとは山岳砲兵連隊やら通信部隊やらがついてます。

長くなる理由になった話なのですが、ここで第三十一スキー旅団自体の歴史が面白いので、少し。この部隊は1942年2月、独ソ戦開戦後に急増で編成されたソ連第十四軍麾下のムルマンスク防衛部隊の一つで、ムルマンスク近隣のトナカイ飼い達など、アルハンゲリスク州の住民を中心に編成された第一トナカイスキー旅団( 1-я оленье-лыжная бригада、五個大隊規模、後に第五スキー旅団。資料によっては独立旅団呼びの場合もあり。)、第二トナカイスキー旅団( 2-я оленье-лыжная бригада、四個大隊規模、後に第六スキー旅団、以下同文。)が前身となっています。

緯度70°、人類最北端の戦場でこの部隊は第六SS山岳師団ノルト(直前まで南国のギリシャに居た部隊なのでとてもかわいそう)を中心としたドイツ・フィンランド軍と死闘を繰り広げることになります。この戦場の目的はレンドリース物資の到着港であるムルマンスクと、それが運ばれるキーロフ鉄道でした。この鉄道の重要性はドイツ側にはよく認識されており、9月前半にドイツ軍が一時的に手に入れた際に、ゲッペルスは演説で「キーロフ鉄道は運休中だ。動いていないし治すことができない」と言及してたりします。(後、ソ連軍により奪還、復旧)

この部隊はその創立初期から戦闘に参加し、1月にはスキー機動を駆使して凍った湖を渡河、敵背面へ進出など、色々やっているのですが、戦歴で一番重要となるのは、4月末から5月頭にかけての一連の戦闘です。

この攻勢の背景となったのはドイツ軍の攻勢が間近であるとの情報で、これを掴んだソ連軍は阻止の為、先手を打つことに踏み切ります。この攻勢はドイツ軍の最左翼(北極海側)の独十四軍、第十九山岳軍団(約三個師団程度)の突出部である第六山岳師団を南北両側からの攻撃により、包囲、殲滅する、という野心的なものでした。

両スキー旅団が投入される南側の攻勢は第十親衛歩兵師団を中心としたもので、第六スキー旅団はその左側面(西側)の防御を担当し、第五スキー旅団この攻勢の予備とされました。北側の攻勢は第十二海兵旅団(12-я бригада морской пехоты、海軍歩兵に非ず)による作戦で、北極海艦隊による援護の元、第六山岳師団の背面に上陸を行います。また、すでに正面に展開している、第十四歩兵師団、第七十二海軍歩兵旅団(後に第百二十六でスキー旅団の相方になります)、第二十三要塞線守備隊(укрепленный район、日本語の定訳と違う訳かもしれません)は東からの正面攻撃にて敵部隊を引き付けますものとされました。

42年の4月28日の朝、三時間に渡る準備砲撃の後、攻勢は開始されました。敵の陣地の位置が不明瞭であった為、これらの砲撃は範囲射撃となり、結果、長時間による砲撃にも関わらず、多くの敵の火点が残されることとなりました。航空支援も行われ、いくつかの爆撃が行われましたがこれらも同様の結果でした。結果、第十親衛歩兵師団と突出は限定的なものにとどまり、敵の後背までは進出できませんでした。北側の第十二海兵旅団も北極海艦隊の支援の元、上陸に成功したものの、敵の背面への進出には失敗しました。この部隊は燃料の不足により、乾燥食をふやかすことができず、塩水で戻し食べるなどといったことを余儀なくされ、結果、食中毒などにも苦しんだようです。

また、第十親衛歩兵師団の突出が限定的なものに留まったのにも関わらず、その側面は長大となっていました。ここをドイツ軍は逆襲し、結果、この側面を防御していた第六スキー旅団の二個大隊(少なくとも第十スキー大隊を含み、他一個大隊とおそらく旅団司令部よりなる)は敵の包囲下に落ちます。姉妹部隊の第五スキー旅団がこれの救出に向かいますが、ただでさえ装備が劣悪、補給も不十分であった上、道に迷った為到着が遅れ、大きな損害を出した上、解囲に失敗します。包囲下部隊の一部は必死の脱出を試み、百名程度は脱出に成功しますが、それ以外はすり潰されます。この一連の戦闘により、二個旅団、計5500名の内、2000名程度が死傷・行方不明となります。

この側面での苦境もあり、戦域司令官のは予備の第百五十二歩兵師団の投入を決定し、30キロ後方の集結地点より戦線に向かい前進させます。しかし、5月4日から翌5月5日にかけて強いブリザードがこの部隊を襲ったことによりこの計画は頓挫します。3-5mの積雪にもなったというこのブリザードは人々をなぎ倒し、車を動けなくするほど強く、第百五十二歩兵師団は千二百名の負傷者と三名の死者を出した挙げ句、何もしないまま元いた集結地点へ後退します。

その結果、第五、第六スキー旅団は敵の半包囲下に取り残されることとなります。333.2高地に取り残された両旅団は5月5日から10日かけて敵の激しい攻撃にさらされます。両旅団の間隙をついたドイツ軍の攻勢は凄まじく、第五旅団の第四大隊が敗走、それを見た第一、第三大隊も敗走を始めます。指揮官の介入により全面敗走には至らなかったものの、この状況、及び第百五十二歩兵師団の増派失敗により、戦線が維持できないことは明白となりました。最高司令部は5月11日、第170372号指令により攻勢の中止を命令。第十親衛歩兵師団及び両スキー旅団は、一部優位な地形を除き、4月27日の攻勢開始時点での陣地へ撤退することになります。また、同じような苦難に陥っていた北側の上陸部隊も撤退し、北極海艦隊により回収されムルマンスクへ帰還します。(ちなみに、この海兵隊は5日間で友軍と合流できると聞かされていたものの、結局17日間敵地にて戦う結果となりました)

この攻勢でソ連軍は敵兵5000名を死傷させたと宣伝したものの、ドイツ側は700名程度の死傷しか認めておらず、一方で、ソ連側の損害は凄まじく、特に敵背面への上陸戦闘を行った第十二海兵旅団は上陸前の8333人中、5268名が死傷しました。正確な統計は見つけられなかったものの、数万規模の損害を被ったと考えられます。

この戦闘で受けた両スキー旅団の損耗は甚大で、部隊の半数以上を失う結果となりました。一方で、ドイツ軍の損耗も少なくなく、企図されていた攻勢は中止されます。その後、両スキー旅団は半年間かけて再編成し、9月に残存の部隊をアマルガムし新たなるスキー旅団を新設。これが、第三十一スキー旅団(31-я лыжная бригада)です。

思った以上に長くなったので、今日はここまで。続きます。

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