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日記抜粋:自己愛など

私は、自己愛性パーソナリティの特性が強く、性対象倒錯を乳房や乳輪、乳首、唇に持っている。そして、この間の女性との関係で、前にも少し感じてはいたが、素直に出せば、女性を性的対象化しているのだ。

根幹にある性格形成においては、自己同一性が著しく欠如していることや、好きなことには夢中になれるが、興味のないそれ以外についての関心の薄さが極端であったり、自然なコミュニケーションは周りで見ている人が思っているほど、私にとっては自然ではなく、それなりに作り込んでおり、期待に沿うようにしていたつもりだった。共感性についても、言葉の通り共感性という態度はあったとしても心が共感できるか、というのとは、違っていた。こうした事例から、高度自閉症、アスペルガー症候群的な性格特性もあったと思う。

こうした話をなぜ、自分の中でバラバラと分解したりするのか・・・。何の役にも立たない、この古道具をバラバラにして、元通りにできないでいるこの状態を何故私は続けているのか、というと、その成り立ちを誰かに知ってほしいのだろうと思う。説明したい、認められたい、私はこうなのです、嘘偽りなく、こういう人なんです、と。

ただ、この数年、この試みの如何に無駄で徒労であったかという事も分かってきた。今でこそ、言葉で認めるが、自己対象を求めるにあたって、その対象へ差し出す条件が自分の成り立ちであるという事なのだ。設計図を差し出している。誰も知りたくない設計図を差し出して、「これをもって、私を認めてはいただけないだろうか受け入れてはくれないだろうか」と言っていた。

バカバカしくて、呆れてしまう。

ではどうするのか。私の本性としては、自分以外は確かに対象でしかない。これは実は非常に自然なのだ。私にとっては自然。等閑視しているというのはこのことを言うのかもしれない。これは、実際、どこまでをそう定義するか今でこそ迷っていたんだな、と思うぐらい、線を持っていた。

だから、これは治らないだろうと思う。

私には対象が必要だ。そして、性的にはある程度、性的対象化が出来ている女性、容姿や態度などがそうだろう。

自己同一性については、自己責任を極力追わなくてよい仕事などが良いと思う。私はアイデンティティが欠落しているので、自己対象を求める。そこに、仕事を持ってくることは、既にもう無理がある気がする。

生き方としては、その設計図を書いていくしかないのかもしれない。

自己と対象、自分とそれ以外、そして社会。人間はその社会という、私からすると好ましからぬ「対象」であるもの、遺棄したい「対象」であるそれに自然に従う様に教育される。「社会に合わせなくてもいいんだよ」という教育を受けている人でさえ、その最初に「社会に・・・」とついているだけで、社会との関連性を見定める。

私の場合は、社会という接頭辞自体がなかった。私しかいないうえに、その私は私の決断について自己責任が取れない。自己同一性がないので、自分の判断で行ったことという意識が薄い。社会とのかかわりも薄ければ、自分とのかかわりも薄い。

だから、言葉で私自身を説明する以外になかったのだ。それも、私に対して。私はアイデンティティを得るため、自己同一性を得るため、自分に説明をしていた。だから言葉は沢山つかった。誰の為でもなく、自分の為に。自分ですら対象となったのだ。それこそ自慰行為であるが、そのネタが自分であるというペシミズムであり、自己憐憫の中で生きている。他人から見たら、それは悲観的に見えるだろう。「悲観的」と言われることに違和感があったのも、自己憐憫に対して、変に逆上しそうになるのも、そういう理由だろう。

私の世界は、強烈に狭い。というより、私には世界観がないのかもしれない。

自虐的と言われることもある。それは、自己ー対象の関係において、自己⇒対象という方向性を作ることすらできず、自らが、対象となり、他人→対象(=自己)という事にしていたのかもしれない。それは正に依存である。自己愛の処理が分からず、自己対象を必死で探すわけでもなく、どうしていいか分からなくなり、私が対象であることで、自己を説明しようとした。そして、私は対象であることにおいて、ある意味、アイデンティティを確立しようとしたが、それは土台無理な話だったのだ。

そこまで言ってもそれは、最終的に「依存」という壁にぶち当たるので、先を見据えたことは一切自分では決められない。

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