自霊拝の祝詞
掛けまくも畏き吾が内なる真の大神に
恐み恐みも白さく
乞い願わくは
己が身に健康にして円満で明朗で優秀たる
真の我を現し出ださしめ給い
立向う処遮る事の絶えて無く 仇為す者も皆退きて
己が生き様を真の志の随に 真心よりの望みの随に
進み行かさしめ給えと
恐み恐みも白す
自霊拝祝詞という言葉があります。これは自身を鏡に映したとき、自身の中にいる霊に語り掛けるように奉納する祝詞となります。自身の中にいる霊、即ち自霊とは既に完成された存在、健康で円満、明朗で優秀な存在であるようです。では、何故そのような素晴らしい自霊を内に備えた私たち人間は、病気になり人間不信に陥り、落ち込み気分が晴れず何をしても上手にできない時があるのでしょうか?
それは、自霊の存在を知らないこと、または知ったとしても認めていないこと、さらには自分で自分を呪い、そのことを他者の責任だと思い込むこと。そういったデバフが自霊の活性化しない原因かと私は思います。
いわゆる祝詞とは、そういったデバフを一時的に、あるいは恒久的に祓う言霊に近いものなのだと捉えています。祝詞を奉納する時点で、自霊の存在を知っています。勿論自霊の存在を明確に感じているわけではありません。ただ、神社に参拝した時や大きな祈願した際に、言葉では現すことができない一種の高揚感、満足感、そして大きい存在に対しての心地よい畏敬感が、まさに自霊が存在するという証左になるように思います。
ただ、神職でもない私のような一般人が祝詞を唱えても、それに意味があるのだろうか?という気持ちはあります。神職が奉納する、あるい数人が口を揃えて奉納する祝詞に遠く及ばないが、その祝詞を唱えている自分という現実の行動や努力に対して、自霊が全く反応しないわけがないというのが私の結論です。
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