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チャゲアス初期曲が売れなかった理由3つ

皆さんは、CHAGE and ASKA(以下チャゲアス)の曲をどれくらい知っていますか?
『SAY YES』か『YAH YAH YAH』しか知らない方も、『ふたりの愛ランド』や『はじまりはいつも雨』をチャゲアス作品だと勘違いしてしまう方も、多くいるでしょう。チャゲアス名義の曲は、全部で200曲以上あります。シングルは48枚、アルバムは23枚を発表しました。

最近の歌謡曲の再評価ブームが起きているなか、ブリは楽曲紹介映像を見るたび思います。
「なぜにチャゲアスは出てこないの?平成の代表アーティスト扱いになっているけど、昭和にも曲を出したよ」と。


CHAGE and ASKAデビュー曲『ひとり咲き』
1979年発売のレコード。活動初期はフォーク作風だった。

チャゲアスは1979年(昭和54年)8月25日にデビューしました。デビュー曲『ひとり咲き』で注目されました。しかし、まだその時の知名度は低かったです。1980年に発表した『万里の河』で、チャゲアスは知名度が上がりました。しかし、その後は10年近く、大ヒットにつながらない日々がありました。でも、その間に多少のヒットはありました。
チャゲ単独が作曲した、石川優子とのデュエット曲『ふたりの愛ランド』は、夏の定番曲ヒットになりました。チャゲはノリのある曲を作りたがっていました。一方のチャゲアス曲は、飛鳥単独で作詞作曲したポップスバラード曲『MOON LIGHT BLUES』が発表されました。しかし、全くヒットせずに、飛鳥本人は非常にあせりました。

石川優子とチャゲ『ふたりの愛ランド』1984年発売、チャゲの初ソロ作品。石川優子の知名度も上がった。


CHAGE and ASKA『MOON LIGHT BLUES』1984年発売、
ニューミュージック作風の始まりとなったシングル。


それらの後に発表された、チャゲアスの『モーニングムーン』は、シンセサイザーを駆使した、デジタルロックでした。これで多少ヒットしました。初めてチャゲがサングラスを付けたのはこの時です。フォーク作風から、ポップス作風に展開したチャゲアスは、多くの曲を出しました。しかし、多くは陽が当たらない様子でした。

CHAGE and ASKA『モーニングムーン』1986年発売、シンセサイザーを中心にしたポップス作風へ変化したきっかけ。


まだまだたくさんのシングルがあります。売れない日々だったチャゲアス初期曲は、『SAY YES』のヒットの相乗効果によって、リバイバルが起きました。中にはチャゲ、飛鳥のソロ活動で再録された曲もあります。ここでは、なぜにチャゲアスの初期曲はヒットに恵まれず、埋もれてしまったのか、理由を3つにまとめました。



☆アイドルブームまっただ中だったから


チャゲアスがデビューした1979年は、フォークブームが終わりに近づく時でした。1980年代には、アイドルたちが現れ、アイドルブームが盛り上がりました。ピンクレディー、山口百恵、中森明菜、松田聖子など、今も歌謡曲ファンの間で語られるアーティストたちが生まれました。
チャゲアスは、男性アイドルの中に隠れてしまいました。西城秀樹、近藤真彦、チェッカーズ、少年隊など、今も語られる男性アイドルたちが盛り上がる時でした。フォークブームはすでに落ち着きました。スタッフたちは、アイドルブームに乗るように、チャゲアスに「アイドルっぽい」ことをさせました。雑誌のコーナー、写真集、バラエティー番組出演、おもしろライブ映像作り、飛鳥のドラマ出演など、曲より見た目を前へ出す姿勢をしました。あの頃は、まだまだ彼らの音楽が注目されない様子でした。評価されないのに、アイドルっぽいことになってしまった2人は、曲作りに専念しました。2人はアイドルになるわけにはいきませんでした。曲を聞かせたい思いは、燃えていました。
ちなみに、チャゲアスは後に、光GENJIや少年隊に曲を提供します。



☆フォークブーム終焉の時だったから


チャゲアスのデビュー曲を聞いて、こう思った人がいるでしょう。「フォーク路線を続ければ良かったのでは」と。残念ながら、きっとそうはいかなかった状況だと思います。
一つは、フォークはもう勢いが落ちていたからです。フォークは1960年代にメッセージ性を含んだフォークが盛り上がりました。1970年代には、メッセージ性が少ない、誰でも聞きやすいフォークが生まれてきました。ポップスが強まるなか、次第にフォークの権威は薄れてきました。
二つ目は、チャゲアス自身が変化を望んでいたからです。『万里の河』がヒットした時、人々はチャゲアスをフォークデュオだと思っていました。しかし、2人はフォーク作風から変えたい思いがありました。ポップス作風に変えたい姿勢が強かったです。もしも、彼らが変える熱意がなかったら、『ふたりの愛ランド』も、『モーニングムーン』も、後の名曲たちも生まれなかったでしょう。
これらの理由から、チャゲアスはフォークデュオとしてやるわけにいかない様子でした。まだまだ世界観が築かれる途中で、ポップスとして何が見せたいのか、伝わりにくい状況でした。フォークデュオとして見られた彼らは、人々の目から古いと思われていたのでしょう。
2人がアジアのスターになってからも、苦悩の日々に作られた曲たちは、忘れずに歌われています。



☆何がしたいのか分からなかったから


今昔のアーティストたちが通る道です。アーティストの初期曲は、いろいろな曲をひたすら作ろうと四苦八苦して、実験して制作していることが多いです。後に有名になると、昔の実験性が減って、ファンは残念がることがよくあります。
チャゲアスは、いろんな曲を作っていました。歌謡曲、フォーク、ポップス、バラード、デジタルロック、ひたすらいろんなジャンルを作っていました。当時から、多彩な作風と歌唱力がある2人でしたが、プロモーションが微妙で、なかなかヒットを出せませんでした。でも、ライブコンサートは満員でした。野外コンサート、国内アーティスト初の代々木体育館ライブ、武道館まで、大成功でした。しかし、シングル曲は売れないままで、スタッフは売れないとすぐ見切りをつけました。
迷っていたチャゲアスに転機が来ました。それはレコード会社の移籍です。チャゲアスはデビュー時はワーナーパイオニア(現ワーナーミュージック)に所属していました。デビュー7年後に、キャニオンレコード(現ポニーキャニオン)に移籍しました。移籍初のシングルが『モーニングムーン』でした。レコード会社のスタッフは、移籍したアーティストを売りたいと気合いが入ります。一方で「移籍したアーティストは成功しない」という法則が言われていました。チャゲアスはそんな法則を吹き飛ばし、曲がじょじょに売れてきます。
「音楽メディアよりライブ」、「移籍したら成功しない」、「レコード会社のプロモーション力の無さ」、まさに今と変わらない話があると気づかされました。

CHAGE and ASKA、「チャゲ&飛鳥」表記のロゴ。通称「不死鳥」マーク。1980年から1985年まで使用された。後にデビュー25周年の熱風コンサートで復活。


以上、チャゲアス初期曲が売れなかった理由3つでした。昭和の名曲紹介で、『万里の河』か『モーニングムーン』が出て、それらしか聞かなかったリスナーがいるかもしれません。隠れたシングル、アルバム曲がまだまだあります。
最後に、ブリの好きなアルバムを1枚挙げると、『21世紀』が好きです。フォークの味が残りつつ、ポップス作風になったばかりの曲があります。ノリのある曲調のチャゲ、ファンタジー性がある歌詞の飛鳥、まさにチャゲアスの個性が出されているアルバムでした。アルバム表題曲が今聞いても、素敵なメッセージです。ぜひどうぞ。

CHAGE and ASKA『C&A IV -21世紀-』1983年発売、フォークとポップスの混じった作風が詰まったアルバム。


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