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追記あり【1997-2022】エホバの証人としての19年間、そして現在

どれくらいか前に、「もう自分が組織から抜けた時のことを書いたり話したりしないだろうな」と思っていたのですが、来月の25歳の誕生日を迎えるまでにエホバの証人をやめるまでのことをまとめたいとずっと思っており、今年ももうすぐ終わるということで一つの節目として回顧録みたいなものを書いてみたいと思います。
Twitterの3つほど前のアカウントにJWをやめるまでの一連の流れを書いたことがあり、それを元に書き起こしてみます。

私は生まれた時からエホバの証人二世でした。家族構成は、現役の父と母、自然消滅済みの姉と私の四人家族です。
姉とは15歳離れていて私が小さい頃だったのであまり記憶にないのですが、おそらく私と同じ歳くらいに組織から離れたと予想しています。今は、一般の人と結婚して二児の母をやりながら習字教室を開いています。

母親がエホバの証人になったきっかけは、母親の姉(私の伯母さん)からエホバの証人のことを聞いたことでした。最初はモルモン教で研究をしていたらしいですが、違和感を覚えエホバの証人に切り替えたそうです。私の姉が幼稚園児の頃だと思います。その後父親も研究を始め二人とも献身。母親は元開拓者です。

私は赤ちゃんの頃から集会に連れて行かれ、会衆の人たちにそれなりに可愛がられて育ってきましたが、学校に通うようになってからは子供ながらに「自分は他の家とはなんか違うんだ」と思っていました。

子供の時は集会へ行くだけで、注解するだけで、奉仕へ着いて行くだけで、周りの人たちからは「えらいね〜」と褒められるのでまぁまぁ頑張っていました。ただそれは上辺だけだったし、学校では必死に隠していたし、火金日曜日は友達と遊べないし、集会奉仕はやっぱだるいしめんどくさいし、何よりも「世の人」との差異にとてつもなく劣等感を感じていました。周りの人たちと同じように生活ができない悔しさ。それが私の中で一番大きな感情で抜け出そうとした最大の理由です。自分が「得損なった」ものに一番目がいっていたので初めからエホバという存在はほとんどどうでもよかったです。

エホバの証人が口を酸っぱくして言う「神と自分との関係」なんて私の中に存在していませんでした。信仰はほぼなし。親から言われるからエホバっているのかなーと思う程度で、必死に祈ったりもしたことないです。親に言われるまま、神権宣教学校は小5くらい、伝道者は高2でなりました。

小学生の頃に他校の同い年の女の子が会衆にやって来て、周りからその子と比べられて余計に苦痛でした。その子は父親が未信者であったこともあり家庭環境はかなりゆるい中で組織と関わっており、それを見ていつも複雑な気持ちでいました。何度か遊んだことがあって私が組織から抜けるまでは仲良くしていましたが後にある事件があり、この子とは縁を切りました。

学校生活では、二世の皆さんが経験されたようなことがほとんどです。先生に証言させられる、あらゆる季節行事に参加できない等々、嫌な思い出しかありません。
恋愛は諦めていましたし、母親の意に反することがあれば友達と遊ぶのを禁止されたこともあります。

鞭に関しては、素手でお尻を叩かれたくらいだった気がします。

一度、何かのビデオを観て(「戻ってきた放とう息子」だったかな?)まんまと洗脳されてしまい、エホバの証人をやめるとこんな生活が待っているのかと恐くなり姉に泣きながら電話したことがあります。ですが予想していたことは全くなく、不安から確信に変わりました。絶対にエホバの証人をやめてやると。

家をとにかく早く出たかったので高校卒業後は絶対就職すると決めていました。本当は大学か専門学校に行きたかったです。しかし進学なんかしたら実家漬けの生活を送るのは目に見えていたので断念。会衆の人から進路を聞かれて就職すると言ったらやんわりやめとけと言われましたが、そんなことはどうでもよかったです。離れる組織の人たちの言うことなんか一切気に留めませんでした。家庭が貧乏だったので親から就職に関しては特に何も言われませんでした。

高校生くらいの時期に、会衆の人たちのそろそろかという視線に耐えかねてバプテスマを受ける準備を嫌々させられました。
バプテスマ希望者が受ける三部構成の討議。気持ち悪い長老と2対1で受けるものは苦痛でしかなかったです。自分が別に信じてもいないことをさも信じているかのように答えていました。

一回目か二回目の討議に落ちた時、我慢の限界で嫌気が差して家出を試みます。旦那さんと子供と暮らしている姉の家に転がり込んで、20歳になるまで待とうと思いました。すると一週間もしないうちに母親が姉の家に乗り込んできて私を連れ戻しに来ました。その時、母親からは泣きながら「今まで頑張ってきたでしょ?お願いだからバプテスマを受けて欲しい」と言われました。私は嫌だと言って抵抗しましたがそのまま無理やり家に戻されました。悔しい気持ちでいっぱいでした。未成年のうちは親の同意なく賃貸契約も出来ず、いろんな手段を当時必死に考えましたが私1人では何もできませんでした。それがまた悔しくてよく泣いていました。

家に戻ってもまだ私はバプテスマを受けたくないと訴えました。そうすると「勝手にしろ、もうあんたの世話はしないから」と態度が豹変、その日から必要最低限の会話しかありませんでした。思い出すと今でも震えてきます。親子ってそんなもので崩れるのだと、とても悲しかったです。私は思い通りに動く人形でないと相手にされない、愛されないのだと。

もう意地でもバプテスマを受けさせる気だと思い、そんな冷たい態度に耐えかねてもう一度討議を受けることにしました。次はもうないと思って必死でした。ついに討議が通り、高校卒業後就職した年の秋に関西大会ホールでバプテスマを受けました。 2016年10月でした。その時の写真です。

成人するまでの我慢、あと少しだからと自分に言い聞かせて生活していました。

そして2017年4月記念式の日。私は2度目の家出をしました。仕事を理由に家に帰らず、母親に今までの気持ち全部をまとめたLINEを送ってブロック。2019年の年始くらいまでの約二年間ずっとブロックし、一切連絡をとらず会いもしませんでした。今度もまた姉に、20歳の誕生日が来るまで家に置いて欲しいとお願いして、連れ戻されることなく誕生日まで待ちました。完全に余談ですが、一人暮らし開始の資金を貯めるための節約で当時、朝→食べないor菓子パン、昼→菓子パン、夜→納豆うどんという食生活を続けた結果、生理が止まり、10キロ痩せました。

組織から消えた後は現役とのLINEは全ブロック削除、メッセージが来たり手紙をもらったりしましたが完全無視、未練などは一切ありませんでした。産まれた時からいた環境ではあったのでお世話になった人はいっぱいいましたが、「感謝の念がない」などと言われても、ただその人たちのために組織にいるわけじゃないので関係ありません。

誕生日当日に部屋を契約し念願の一人暮らしを始めました。もう何年も一人暮らしをしたいと思い続けていたので何年越しかの願いが叶って晴れ晴れした気持ちでした。

どこにでもあるようなお話です。当時はただただ死にたいという気持ちと葛藤していたのを覚えています。姉から聞いた「産まなきゃよかった」と母親が言っていたという言葉にひどく傷ついたのを今でもよく覚えています。

今思えば、母親は私にバプテスマを受けさせることに躍起になっていて、それが終わらないことには日常が穏やかにならないと思ったから私もムキになって受けてしまいましたが、バプテスマを受けるにあたっての準備にとても時間を使ってしまったことを本当に後悔していて、やはり水没前にやめることが一番いいのだと痛感しています。

一番辛かったのは、バプテスマを受けたくないという気持ちが母親に伝わらなかったこと、「バプテスマを受けたいという意志表明」のために集会、注解、奉仕何一つ休ませてもらえなかったこと、長老からの試されるような目、会衆内の「次はりんごちゃんね」という期待、圧力。わざと長老様に気に入られるような返答を考えたりもして、何一つ自分の意思はありませんでした。

これも余談ですが、学生時代に学校でちょっとした海外留学のようなものがあり、これもバプテスマを受けることを条件に参加させてもらいました。結局、エホバの証人をやめましたし、自分の中できりをつけたかったので、その時にかかった費用40万を20歳になった時母親に返しました。母親はただお金が戻ってきたことに喜んでいるだけでしたが。

JWやめたい〜やめてすぐの時(高校生〜20歳)はとにかく破滅的で、何もかもどうでもよかったしどうにでもなれって気持ちでした。どうせ自分は長く生きたいとも思ってないし、長く生きたいと願ってる人と自分の命を交換して欲しかったです。当時の乱雑に書かれた日記を見つけたので一部を初めて載せます。(見にくくてすみません)

就職した会社では、同じ高校出身の先輩が結婚と妊娠でとても幸せそうにしていて当時の自分とは雲泥の差で、その人には何にも関係ないのに勝手に傷ついて苦しんでいました。

この頃から常に情緒不安定が続き、今年の1月からやっと心療内科に通い始めました。薬のおかげで今はなんとかやっています。

一人暮らしを始めたものの、一人になったのが寂しくて一時期、職場の男性と所謂都合のいい関係になり依存したこともありました。現在も恋人にしろそれ以外にしろ、幼少期に親からもらえなかったものを異性に求めてしまい失敗し、そしてずっと埋まることのない溝の存在と日々戦い続けているところに影を落としています。

鬱の傾向が強いと診断されたことをLINEで母親に伝えた時、何か原因があるのかと聞かれたので、「エホバの証人をやっていた時の後遺症だと思う」と伝えたところ、返信は返ってきませんでした。きっと、「エホバの証人時代のストレスなんて、あの子は信仰を育てられるような大した聖書の勉強もしていないのに何を言ってるの」とぼやいていることだと思います。何度も何度もそういう、母親が私を下に見るような姿勢が頭に浮かんでは本当に苦しく、吐きそうになるくらい泣きました。被害妄想だと言われればそれまでですが、私は、ずっと母親から謝罪の言葉が欲しかったのです、しかし姉とも話し合いましたがそこに関して母親はなんとも思っていないようです。

とはいえ今は両親とはそれなりに仲良くやっていて、出身が関西なのですがよく帰省もしています。実家に帰った時の母親は、当時の影も見えないほど変わっていてとても優しいです。歳をとって少し丸くなったのかなと思っています。組織に戻ってこいとのことも言わないですし、私がエホバの証人をやめたことに対しても何も言ってこないです。

会衆の人たちとは、5年前の記念式から活動をやめて急すぎたかと思い、母親から連絡先を教えてもいいかと聞かれたり、手紙やちょっとしたプレゼントもらうたびに数名LINE交換してお礼を言って、送られてきたものに返答もしていました。しかし去年、記念式前というタイミングを狙ってここぞとばかりに怒涛のお誘いLINEが来てご丁寧に下のような寄せ書きまでもらってほとほとうんざりし、再度ブロック削除させていただきました。母親にも、もう誰かから連絡先を教えて欲しいと言われても教えないでとお願いをしました。
もう大丈夫というぼんやりした考えで連絡先を交換した浅はかな私も悪いのですが、そういうお誘いを受けたり少しでも戻りたいという思いがあってやりとりしていたのではなく、普通の日常会話なら大丈夫でした。前述で未練はないと書きましたが、お世話になったし..と思ってやりとりくらいはいいかと思いました。しかし引き戻そうとしてくるそれは明らか。寄せ書きを見た瞬間、悲しみと怒りと色々な感情が重なってボロボロに泣きました。自己満なのか本当に戻ってきてほしいと思っているのか、それだけ引き戻そうとして、そんなに私が「悪」なのか、私がエホバの証人をやめて生活している今を全否定されてるように思えました。
聖句付きのお手紙を読むたび、昔のことがフラッシュバックして憂鬱になりどれだけいっぱいの温かい言葉を並べられても、私が組織を抜けた必死の想いとか分からないだろうな、としか残りません、ごめんなさい。私はもう期待には応えられないですし、今後エホバの証人には一切関わらないと決めたのです。

話はまた変わり、母親に対しての恨みつらみは尽きないですが、私自身、罪悪感を感じているところもあって実家を出てからは母の日には毎年贈り物をしています。私はこの先、一生母親から誕生日を祝ってもらえることはないと分かっていてそれは私にとって一番悲しいことなのです。大きなホールケーキでお祝いしてもらいたかったです。それでもせめてもの罪滅ぼしと思っての行動です。

現在のことになりますが、関東に来てもうすぐ5年目、当初派遣として入社した会社の正社員登用試験に合格し、晴れて正社員になれて安定した生活を送れています。自ら高卒就職を選んだもののずっと学歴コンプレックスがあり、それなりの大企業に入社できたことでそれが少し緩和されたと感じています。

未だに、たまにどす黒い希死念慮が湧き起こってきて嫌になることは多々あります。鬱状態が一番最悪の状態になった時は両親の前で号泣、ご飯は喉を通らない、毎晩自分のことを包丁でぶっ刺すことを想像しながら薬で眠る日々が続いたこともありました。ひっそり遺書も書きました。

昔ふと考えた、「産んでくれたことを親に感謝できるか」という問いには真っ直ぐに考えても限りなく"NO"に近いです。今が幸せだからといってあの辛かった過去をなかったことにはできないですし、今の幸せは親のおかげで得うる幸せではないからです。それでも、エホバの証人時代の記憶は薄れつつあり、私は自分の力でここまでやってきたと自分のことを自分で認め、今の幸せを噛み締めるようにしています。
組織から抜けられるまでの生活は地獄で、何年経っても許すことのできない黒い感情というものは存在し続けるかもしれませんが、絶対親から離れて自由になってやるという目的をもってそれのために必死こいて生きていたあの時の自分はかなり頑張っていたと思いますし、好きでした。

文章をこんなにまとめたのが久しぶりで、長々とぶっ通しで語彙力もない文面になりましたが、これが私の回顧録になります。ほとんど愚痴のようになってしまい申し訳ありません。
この先自分でもたまに読み返して心の整理に使用すると思います。

ここまで読んでくださった方、お付き合いいただきありがとうございました。

【追記】
あれから数日後、日常でいろいろあり、母親に相談することがありました。するとLINEが送られてきて、それを見た瞬間号泣しました。ずっとずっと私が望んでいた言葉。まさか母親がこんなふうに抱えていたとは思わず、本当に驚きました。

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