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"パクり"は悪なのか?

よくインターネットで「〇〇は〇〇のパクリ!」と糾弾して、盗作だったのか…と炎上するパターンが、ずっと続いているので、創作とは何か?という事を今回記事にしたいと思います。

パクり、盗作、何かズルしてる感覚あるンじゃないでしょうか?

私達人間は、この記事もそうなんですけど、言葉とか数式とかを共通認識としてコミュニケーションを取っています。

言葉で言うと"あいうえお"とか"ABC"とかの文字があって、単語があって、文法があって、これを基本共通認識としてコミュニケーションを取ります。

音楽だったら、"ドレミファソラシド"とかコードとかリズムとかですかね。

基本、ポップスの構成はAメロ→Bメロ→サビみたいな基本構成があります。

漫才だったらボケとツッコミとか、漫画だったら右から読んで→下へ→左上みたいな文法があるんですよ。

私達は無意識に、こういう基本構成の基礎教養があるからこういった表現のコミュニケーションが出来るのです。

本当に根本からオリジナル性を追求するんだったら、こういう文法や言語すら捨てて、自分のオリジナル言語、文法を使う必要があります。しかし、これでは自分オリジナルな為、自分以外誰も理解出来ません。コミュニケーション不可能なんです。

誰も「"あいうえお"のパクリだ!」だとか言わないじゃないですか?人間というのは、どの表現であってもある種の定型的な文法を介してコミュニケーションをしてるんです。これは人類の共通資産として認識してるからなんですね。

これはサザンの「いとしのエリー」の元ネタとして有名なマリーナ・ショウの曲です。

インターネットでこういう曲を取り上げて「〇〇は〇〇のパクリだ!」と投稿すると、その人が凄く音楽に詳しい人に見えるんですが、音楽にはこういうの腐る程あります。結局、その人が「僕って音楽詳しいよ」と言ってるだけの只の承認欲求、創作という行為をよく知らない人向けのマウント取りなんですね。

著作権の話に言及したいと思います。

本来は、創作物は上記であげたような人類共通資産として扱われるべきモノなのですが、アーティストも生活しないといけないので、経済に組み込む必要があります。そこで著作権が必要になってくるのですが、ここで問題があって著作権の保護期間というのは製作者の死後70年までなんです。これは製作者とその家族が利益を受け取るシステムだというのは分かります。ですが、例えば20歳に作った曲がヒットして、70歳に亡くなったとします。それから70年後、つまり、130年前の曲が人類共通資産になり得るか?という問題があります。130年も経てば人々の記憶から消え去ります。消え去らないようにする為には、何年後ごとに度々取り上げる必要があります。つまり、現代で"パクり"とされてる行為は過去の遺産を現代に蘇らせてる機能があります。

フリッパーズギターの「グルーヴチューブ」という曲です。このイントロ部分に注目して次の曲を聴いてください。

イタリア映画「セッソマット」の曲なのですが、イントロ部分がグルーヴチューブの元ネタなんです。この「セッソマット」にも元ネタがありまして…。

カメルーンのミュージシャンManu Dibangoの「Soul Makossa」です。

このように創作物は、元ネタと思われるモノにも元ネタがあって、完全オリジナルというのは幻想なんですね。我々クリエイターというのは、過去の遺産を現代的に解釈して表現してるだけなのです。

90年代の渋谷系やヒップホップのサンプリング文化というのは、これまでクリエイターだけが理解していながら大っぴらには盗作などと揶揄されるのでふんわり誤魔化していたのを、アーティストは過去の遺産を踏襲して受け継いでいくもの、という事をハッキリと示したモノなんです。

ヒップホップのサンプリング文化というのは、お金の無い黒人が編み出したものなのですが、現代では著作権の関係でサンプリングをするとクレジットを払わないといけないので、儲からない、訴えられるなどの危険性から敬遠される傾向にあります。露骨に過去の遺産を使って表現出来るのはお金持ちだけ、という状態になっています。

これは、非常に危険な傾向で、例えば、町の小さい音楽教室だとか、幼稚園とかで、パプリカみたいな有名曲をやったとします。そこに著作権料が発生する。これではハードル高くて音楽表現の初心者や子供達は、著作権料のある既存曲に触れ難くなるでしょう。

それなりに収入がある人のみが、クレジットを払わないといけないだとか、アーティストに利益を分配する事と人類共通資産である事の2点のバランスを取りながら、創作物を引き継いでいかないとなりません。

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