コロナウイルス

卒業式が中止になった。

木曜の夜、リビングでだらだらしていたら、母が声を出した。
「何?」
「学校、休みになるんだって」
「どういうこと?」
「コロナウイルスでこれから春まで学校は休み、あなたの卒業式もなしになるかも。明日で最後みたい。どうしよう」
僕の中学校生活は、突然終わることになった。

僕は、野沢さんのことが好きだ。一年のときから。
彼女は僕と違う小学校の出身だった。入学式の日、一目惚れだった。
だけど三年まで同じクラスにならなくて、僕は声もかけられず、たまに見かける姿を眺めるばかりだった。

同じクラスになった野沢さんは、よく一人で本を読んでいた。詩のようだった。僕も詩を読もうと思って、図書館で名前だけ知っていた宮沢賢治の詩集を手に取ってみたけど、一ページ目から何が書いてあるのか理解できなかった。

野沢さんは運動ができない。跳び箱は何段でも跳べずに上に座っていた。
走るのも遅い。彼女のフォームはわりに運動のできる僕からすると、真剣にやっているとは思えなかった。
そんな姿が、僕には愛おしくてならなかった。

彼女はいつも超然としていた。少し近寄りがたい雰囲気があった。友達も少なかった。田中と橋倉以外の誰かと話しているのを見たことがない。
彼女はいつも超然と詩を読み、跳び箱の上に座っていた。

僕は野沢さんのことが好きだった。

野沢さんは勉強ができたので、この辺で一番賢い高校に行く。僕は真ん中よりちょっと下くらいの高校だ。春になれば、別々。もう会えない。

明日が最後。明日が、最後。

金曜。先生は本当に今日で学校は最後だと言った。下駄箱の音、廊下の空気、教室の扉が開く音、僕の日常がこれで終わるとは信じられなかった。しかしどうやら本当のようだった。

今日で最後。

言わなくてはならない。

放課後、野沢さんはいつも通り一人で、帰り支度をしていた。クラスの誰も彼女に気を払っていない。僕は頭の中がぼんやりしていた。酸素が行き渡っていない。しかし言わなければならない。僕は彼女の席に向かった。
「野沢さん」
彼女はふっとこっちを向いた。
「何、高橋くん」
僕は一呼吸して、言った。
「明日の夜の八時に、学校に来てくれないか」
クラスのざわめきを遠くに感じた。
「なんで」
「なんでも」
「何があるの?」
「話がある」
「……いいよ。面白そう」
僕はこのときもう、笑顔になっていたと思う。
「じゃあ明日、明日の八時。絶対だよ」
「わかった」
僕はどうやってこの日が終わったか、覚えていない。

土曜の夜。僕は七時には校門前にいた。待つ間、ずっと心臓がおかしい。五分を永遠に感じた。僕は何度も時間を確かめた。八時十二分、彼女は来た。
「ちょっと遅い?」
「いや、いや」
「で、なんの秘密の話があるの?」
僕はもう呼吸が苦しくなっていた。頭の中がぼんやりしていた。考えがまとまらない。何を言えばいいかわからない。呼び出しておいて、僕はここでどうするか、全く考えていなかった。
「好きだ」
「え?」
僕は何を言っているんだ。
「一年のときからずっと、野沢さんのことが好きでした」
「だって、私は高橋くんとそんなに話したこともないし……」
「でも僕は好きなんだ。野沢さんが好きだ」
「でも、そう、友達だから。私は、高橋くんとは、友達だから」
「……友達」
「だから、気持ちはすごく嬉しい。でも、高橋くんとは、友達」

今日までろくに話したこともなかった。春からは、別々の高校。そんな友達。どうやら僕と野沢さんは、友達らしい。

それから、どうやって別れて、どうやって帰ったか、覚えていない。気が付いたら僕は自分の部屋で泣いていた。
「……コロナウイルスのせいでは、ないよなぁ…………」

これが僕の中学校最後の思い出。

コロナウイルス

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