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スカラベテーブル‐残像から生まれるもの-

私は残像を愛している。

たまりばというシェアハウスを始めて5年。様々な人が集う場に住み続けていると、日常のそこかしこで今までこの場に集った人々の残像に出会う。私はその残像たちと日々会話をし、癒され、また新たな発見をもらいながら日々を進めている。
残像というのは私にとって大きなテーマであり、私が気になってしまうもの、例えば文化や街、言葉や表現は、すべて残像の結晶であると思う。人々が生きた名残が文化となり、人々が動いた証が街となって今目の前に現れる。私が読んでいる本は誰かの思考の残像であり、映画や絵などの作品もまた、作者のイメージの残像である。
私たちは多くの「残されたもの」に支えられながら生きている。

しかし個人の持つ残像は有限であり、残像との会話にもまた限りがある。
春の訪れを予感する今日この頃、私はこの場に残った残像ではなく、今、日本全国に散らばるかつて同じ場を共有したみなが、それぞれの土地で何を見て、何を考え、どう表現をするのか、今を生きる像と会話をしてみたいと思った。

そんなことを考えていると、とある人の残像がこう言った「表現というのは、排泄物である。」
様々な体験を経て培ったものを消化し排出する、それが表現になると。

とある種類のスカラベは、動物の排泄物を玉にして運び、食し、またそこに卵を産み付け、子どもはその糞を食しながら成長していくという。また、地中に埋められた玉は、肥沃な栄養素として植物の成長を後押しする。たまには糞の中にある種子が芽吹くこともあるだろう。
動物が食し、蓄えたものが排泄物となって排出され、それをスカラベが丸め、運び、またそこから新たな命が生まれていく。そんなエコシステムが世界中のいたるところで存在している。

古代エジプトでは、スカラベの絵は「誕生」を意味する。このスカラベテーブルでも、皆がそれぞれの土地で体験し、食したものの糞をテーブルの上でコロコロと転がしながら、未来に向けての新たな芽生えをここから生んでいけばと思う。

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