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許されたい罪悪感を受け止める(2016年)

俺がまだ30歳そこそこだった頃、Yというスタッフの女性がいた。

Yには実家と呼べるところがなかった。母親という存在はいたけれど、17歳の時に家出してから21歳のその時まで一度も連絡をしていないと言った。とにかく母親に対して怒っていた。

Yは17歳の夏に高校を辞め、その日のうちに家を出た。住む場所のあてもないまま東京をうろつき、そのうち偶然知り合った当時38歳だった男の古いアパートに転がり込むようになった。

そして半年後、18歳でその男と結婚した。

夫は発達障害があり生活能力に乏しかったが、每日每日、小さな会社の事務員として仕事をしていた。不器用なので仕事は苦労していただろう。性格が繊細でいつも苦し気な顔をして働いていた。それでも給料は少なく、いつも妻にそれを謝っていた。

妻のYは近所のコンビニで働き、2人で細々と食っていくことは出来た。Yは夫のことをとても愛していたので、貧乏なことは気にならなかった。それよりも夫がいじけたようなことを言うのが気になり、いつも励まそうと心掛けていた。

每日ささやかな夕食をはさんで座り、食事後はテレビを見て、夫が10時に床に着く。そのあとは妻は仕事に出かけていく。楽な生活ではなかったけれど、確かに幸せを感じていた。

コンビニでは毎日朝まで必死に仕事をした。明け方に店の外が白けてきて、作業服姿の男達が缶コーヒーとサンドイッチを買い込む時間帯になる。そんな時、いつも思い出す言葉があった。

それをなぜ明け方に思い出すのかは分からない。

それは母親の言葉だった。母親は娘のYにこう言った。

「あなたは人と違う環境で育ったかもしれないけど、あなたには誰にも負けない価値があるの。どんな環境で生きていても、あなたには絶対価値があるの。それを信じるって約束して。いい?あなたには価値があるの。」

それを思い出すたび、Yは意識が一瞬遠くなる。そして気を取り直し、必ず小さく舌打ちする。

むかつく。あんだあの女は。そのいつもの言葉で、どれだけ自分の人生は絶望に突き落とされたか。どれだけ死にたくなったと思うのか。

母親がいつもそれを言う理由を、Yはなんとなく知っていった。でも言葉ではっきりとは言えなかった。

とても卑屈な何か、だったんだ。

Yが物心つくときには父親が存在しないことを知っていた。それが何故かを考えることはあったけど、すぐにやめた。

母親は田舎町で小さなスナックを経営していた。薄汚いビルの片隅でやっていて、金のないおじさんがカラオケを熱唱するような店だ。

自宅には母親を訪ねてやってくる男が何人かいた。深夜に家に帰ってきてすぐに寝て、昼前に寝床から起きると風呂に入って化粧を始めていた。疲れ果てた顔をした中年オンナは、化粧をすると別人のように派手になった。化粧が終わると、男がやってくる。母親より年上の中年男。腹が出ていて、若作りしたような似合わない服を着ている。

幼かったYはリビングでテレビを見るように言われ、5分もすると奥の部屋から母親の色っぽい声が漏れてくる。30分もすると何事もなかったかのようにリビングに現れた。男は頭に汗をかき、母親は髪が乱れ、口紅が取れていた。

「Yちゃん、元気か~」と男は言う。Yはその男の顔は覚えていない。顔を見ないようにしていたからだ。Yは返事もしない。すると男がちょっと怒るのが空気で分かった。無視していると、すぐに帰っていった。

母親は決して美人ではなかったが、きっと男なしでは生きられない情けない弱い女だったと思う。

每日のように違う男が家を訪ねてきた。それはきっと3人か4人はいつもいた。

Yはいつの頃からか気づくようになった。自分の父親は、そのうちの誰かなんだって。でも母親は認知をもらえていないのではないかと。

男はいつも誰かが来なくなり、誰かが新しく加わった。それでも、いつも変わらないあの男、自分をYちゃんと呼ぶあのオヤジが自分の父親なんだろうとついに気づいた。
あのオヤジに自分の顔がどこか似ているのだ。
自分の顔が汚らわしかった。

男達と母親の逢瀬は、Yが家をでるときまで続いていた。

学校から早退して帰ってくると、玄関には男物の靴があった。それを見るとたとえ風邪をひいて熱があっても、近所のマクドナルドで1時間ほど時間を潰すようにしていた。

どいつもこいつも、妻子がある男ばかりなんだろう。わたしの家はあいつらが排泄物をぶちまける公衆便所みたいなもんだねといつも考えた。

そんな時にまるで立派な母親のように言う。あなたには価値があるのよ、と。信じて、と。

あなたには価値があるのよ。

あなたには無条件で価値があるのよ。

あなたは世界で一番綺麗で可愛いの。

あなたは世界でただひとつの命なのよ。

あなたのことをわたしが世界で一番愛しているのよ。

あなたが生まれてきてくれて、お母さん幸せなのよ。

コンビニのレジから店の外が白んでくるのを見る時、なぜそんな母親の言葉を思い出すのかは分からない。

母親のその言葉でどれだけ絶望を味わったか。でもそれが何故かは分からないままだった。仕事が終わってまた歩いて家に帰って、シャワーを浴びてから仕事に行った後の夫の布団の中に潜り込むと、1分もしないうちに眠りに落ちてしまう。

価値がある、か・・・。

少なくとも夫とのこの必死な生活には価値があると思う。そう信じたい。

そんなささやかな居場所を作っていた結婚生活もある日終わりを遂げる。ある日、夫が家に帰ってこなかった。どうしたんだろうと心配しつつも仕事の時間になったので出かけようとすると電話が鳴った。

警察だった。

夫が自殺した、ということを知った。会社のビルのトイレで首を吊っていた。

遺書もなく何が原因なのか分からなかったが、妻にも打ち明けられないような苦しい毎日を過ごしていたのかもしれない。生きづらかっただろうに。ごめんねと思いながら、Yは罪悪感で毎日苦しんだ。

夫がいなくなった部屋で一人で生活した。しばらくは食事の時は二人分の料理を用意した。食べ終わると夫の分は捨ててしまう。ごちそうさまと言うと、夫が答えてくれるような気がしていた。

Yがアキラのところに来たのは、その自殺から1年が過ぎた頃。

コンビニのバイトだけでは食っていけない。だから夜の仕事を始めようと思ったということだった。

夜の商売にしては見た目に華がない。疲れている。この1年、ずっと憂鬱に苦しんで生きてきたのだから仕方ない。

「わたし、ぶっさいくなんでごめんなさい」

Yはそう俺に言った。そんな卑屈なことを自分から言わなくていいよと俺は言った。不細工な女なんて存在しない。

Yはよく働く女性で、決して頭がいいわけじゃないが与えられた仕事は素直に取り組み、結果も出した。

Yには俺はなにか引きつけられるものがある気がして、よく話をするようになった。わりと頻繁に食事に誘って事務所の近所にある小さな居酒屋に行った。

「アキラ、質問があるんだ」とYが言う。

その時Yが言ったのは、あの母親の「あなたには価値がある」という言葉のことだった。

「それってどういう意味?」

俺にはよく知ってる状況だったよ。その言葉を言う母親の心の中が透けて見えるようだった。

俺はジョッキのビールを少しすすり、おしぼりで口を拭ってゆっくり言った。

「それはね」

「うん」

「母親がおまえに、許してって言ってんだよ」

あ~~~~とYは、やっぱりかと言うかのように、あるいは腑に落ちたかのように、カウンターの上にあったテレビを見上げて無言になった。そして笑った。Yはなんか急に元気になったかのように笑いだし、俺の横にぴったりと身体をつけて、ふふふと落ち着かないように、厚焼き玉子頼んでいい?と言った。

あなたには価値がある、あなたは世界一の女の子、あなたはみんなに愛される、

女性は偉大、女性はすばらしいもの、自立して生きる女になりなさい、

あなたのことをお母さん愛してる、あなたのことをおかあさん信じてる、

あなたは美人、あなたは可愛い、あなたは自信持って、

そう言う母親が一番言いたいことって何?

「わたしを許して」ってことだよ。

既婚男との逢瀬で子供が出来て、それで奥さんと別れるのを信じて産む決意したら別れてくれなくて、結婚してもらえなくて、それで強がって子供産んで、たぶんあなたは惨めな子、ごめんなさい、でもお母さんを許して。

そういうことだよな。あなたは無条件で価値がある存在。そう繰り返すのは、許しを請いたいから。

Yは厚焼き玉子に大根おろしを載せて、醤油をかけた。

「おいしそう」

ほふほふ言いながら一口食べて、Yは笑顔になる。「アキラと話せてよかった」

じゃあ、もっと質問。そうYが言った。

「わたしは、逆に母親になんて言ってもらいたかったんだろう?自分では分からないんだよね。」

俺は少しの間無言になった。エプロンをした女将にビールのおかわりを頼んだ。

「うちは貧乏だけど、二人で楽しく生きようね、かな。」

そう俺が言った。

もし母親がそれでも每日面白おかしく生きようとしているのを見せてくれていたら、Yは絶対違ったと思う。ありのままで楽しくしてくれていたら。

Yは自分のことを言葉にしてくれて嬉しいと言った。

母親が、あなたの幸せあなたの幸せ、あなたの価値あなたの価値と繰り返す度に訳の分からない怒りが込みあげたものだった。

自分の弱さと、自分の不安と、自分の後悔、自分の失敗を、娘になすりつけていたってことだったんだね。自分は何も努力せず、ただスレた女気取り、ワル気取り、そして不幸な女ごっこ。

母親が価値を持つのは自分に対してであって、娘に価値をなすりつけることじゃない。

俺が言った。

「夫が死んだことに、自分が罪悪感を持っているんじゃないの。」

Yが言う。

「そうだよ。一人で死なせてしまったと思ってる。」

「夫に本当は言うべきだったと思う言葉はなに?」

Yは少し考えていた。

「・・・うちは貧乏だけど、二人で楽しく生きようね・・・かな・・・」

障害もあって上手く働けない夫に、妻は、あなたには価値があると言い続けたかもしれない。励ましているつもりで、励まされたいのは自分だった。

そうじゃなくて、貧しくても無職になってもなんとか楽しく生きようねと言ってあげたら良かった。

「私もそうだったんだね」

居酒屋からの帰り道、住宅街の暗い路地を歩く時、Yが俺の腕に手を回した。

「今日はありがとう」

そうYが言った。

「俺といたら、カッコいい人生ではないけれど、それなりに楽しくなるよ」

「一緒にいるね。それと」Yは少し息を吐いて言った。「母親に連絡してみようと思う」

それがいいね。

お母さんを楽にしてあげなよ。

お母さんは罪悪感を抱えて生きている。それを許してあげて楽にさせるのは、自分も救われていく近道だと思う。

その夜は、俺の部屋でまたビールの飲みながらピザを食べて過ごした。

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