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助けだそう、君のその孤独から

一緒に旅をすると一人の人間の魅力が丸裸になると思っている。 


例えば一緒に新幹線に乗った時、駅弁を買って食べたとする。窓の外は見慣れない雪景色で、テーブルの上には小さな弁当の包と温かいペットボトルのお茶が載っている。

「さ、食べようか」そう言って包を開けて、一口食べてみる。それが美味しいものか平凡なものかはどうでもよくて。

その瞬間だけ切り取ってみても、魅力的な人は圧倒的に魅力的に映る。男はこんなことをポツリポツリと言う。

「ガキの頃、母親は駅弁を作る工場で働いていた。女手ひとつで俺を育ててくれたんだけど、母親は每日仕事仕事でね。工場で失敗した弁当をいつも持ち帰ってくるのが俺は楽しみだったんだよね。それはいつも同じ弁当だった。鶏肉のそぼろを甘く煮付けたものがご飯の上に敷き詰められているもの。母親はいつも夜7時じゃなきゃ帰ってこなかったから、俺は冷蔵庫に入っているその弁当をおやつ代わりに食べていたんだ。」

それを聞いた女は言う。

「寂しい子供時代だったんだね」弁当を食べながら言う。

「そぼろ弁当を食べると、寂しい記憶もあるようで、でもそのうち母親が原付バイクに乗って帰ってくる音がして嬉しかった記憶も、両方あるよ。」

2人で食べているのは、鶏肉のそぼろが入った弁当だったりして。

「おいしいね」と女は笑顔で言う。



魅力的な人間には、いつも必ず物語がある。人に物語を伝える言葉を持っている。

それは旅という非日常で特に際立つ。

物語を持つ人のその話は、過去の物語だけではない。その旅行という非日常で、きっと将来どこかで語られ思い出されるはずの、未来の物語の登場人物になってる感覚がある。そうか、自分はいま、この人と私の物語を作っている最中なんだって思わせる。

そういう人間と旅をすると、たった一時間前の出来事がまるで遠い昔の思い出のように感じるようになる。まるでミルフィーユのように記憶と物語を何層にも重ねていく。思い出すたびに甘い香りがする。

それは、吹雪の函館の市電を待つ駅でも、永田町の大使館の横の細い路地でも、夜の地下鉄の駅に吹きすさぶ風を感じる時でも、その人といるといつも物語の中にいる気がする。いや、その人と駅のホームで別れた後で、ガーゼに血が滲むように思い出すようになる。



なぜその人が物語を感じさせるのだろうか。

それはきっと、人生のある一日に思いを巡らす経験の量の差だと思う。

誰かに寄せられた愛情や、誰かに通じなかった思いとか、闇の中で見た光のこととか、光の中でみた闇のこと、砂を噛むようなどうしようもない後悔とか、絶対に癒せない飢餓感とか、飛び跳ねるような喜びや、シャンパンがぽんって音を立ててキラキラ輝く夜のときめきや、それらを全部失った夜8時とか。そんなある一日のことに思いを巡らす経験が多い人かもしれない。

そういう人はみんな共通してる。絶対に、メロドラマの安っぽい主人公のようにカッコつけている人じゃない。街灯にもたれかかってため息をついて星空を見上げるようなことはしない。

男でも女でも、共通して無邪気な人。男はむやみに少年ぽく、女は無自覚なほど明るい。ホールケーキにロウソクを立てて灯したとき、わあ!って声をあげるような人たち。良くも悪くも感受性が強くて、カッコつけてる暇がないほどいつの瞬間も何かを感じている。その感情の多くは、喜びについて。

ありがとう!たのしい!嬉しい!思い出になったよ!繰り返し思い出すね!そんなことばかり言う。

ほんとは人生がそんなに楽なものじゃなかったはずなのに。



そんな人と一緒にいて自分も楽しいと思えたら、絶対に手放すべきじゃない。物語の世界から1人で勝手に降りないことだと思っている。


降りてしまったら、もうその船には乗れない。まるでオペラ座の怪人のラストシーンのように、青く照らされた洞窟の池をゆっくりとボートが去っていく。

誰かと誰かが、歌を歌いながらね。



”助け出そう すべてを尽くして

君をその孤独から”



そんな歌を歌いながら、ゆっくりとボートが向こうに消えていく。



物語を感じることが出来たら、その恋は絶対に手放してはいけない。時に、彼らの無邪気さから少し馬鹿っぽく見えることがある。もっと楽しいものがあるような気がする。そして間違えて手放してしまう。



気がついたときにはもう、ボートは消えてしまい。遠くから美しい感受性を持つ男女が歌う声だけがするのを、あなたはただ聞いているだけになってしまう。

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