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リア充とプア充

ここ数年、特に高齢者世代のタレントを中心に、「友達は要らない論」を唱える人を見かける。

その内容を詳しく聞くと、まあ正論と言えば正論というか、表面的な友達は自分の人生の時間とお金の自由を奪うとかそういう話をしている。

そしてその論はたいてい批判を浴びる。金も信用もあって社会で金もうけをしてきた人間が言うことかよと、怒る人がたくさんいる。

俺からしてもそれは正論ではあるけれど、一般論にするのはあまり頭がいいとは言えないと思っている。友達は要らない論者の多くは、友達が要らないのではなく、「お前なんか友達じゃない」と言っても自分の人生もお金も特権的に守られているに過ぎないとは気づいていない。

彼らは自分以外の環境に置かれている人たちのことが想像できていない。

世の中には友達がいなければ生きていけない層がいるのだ。


人間は「友達」「お金」「能力」の組み合わせで、いくつかの種類に分けることが出来ると思う。

お金があって友達も多い。

お金があって友達が少ない。

能力があってお金がなく、友達は多い。

能力がなくてお金もないが、友達が多い。

このように分けていくと、「友達が多い」人には極端な二種類がいると分かる。

①お金と能力があって、友達が多い

②お金と能力がなくて、友達が多い

この二つ。

①の人達は「リア充」と呼ばれ、②の人達は「プア充」と呼ばれる。どちらも友達が多いのが特徴だ。良くも悪くも友達同士のコミュニティの中で生きている。

リア充は、一般的に学歴が高く年収も高い。会社員ではなくオーナー創業者。二代目社長はいない。また、都会で暮らしていて田舎暮らしは絶対しない。田舎で暮らす自称リア充は、本当の意味でリア充ではない。

この人たちは自分たちと同じ能力、同じ経済力、同じ人生的文脈の人と常にいる。コミュニティを形成していて、この中で情報やお金が循環している。もちろん悪い遊びも。


一方、プア充はどうかと言うと、一般的に学歴は中卒、高卒、あるいはFラン系の大学卒であり、田舎に住んでいる。年収は100万円台~300万円台と低い。

リア充と同じように、同じ文脈の友人が多くいてコミュニティを形成している。そしてやはりここも同じように、情報がこのコミュニティの中で循環する。〇〇君が車を買った、〇〇ちゃんが結婚した、〇〇ちゃんが保険屋になったから保険入ってあげて、〇〇君の板金屋が職人を探している、〇〇ちゃん夫婦が家を買いたいらしいから営業マンの〇〇君を紹介してあげて、今度バーベキューをやるの先輩の家に集合、親代わりの〇〇先輩、そんな感じだ。

面白いのは、プア充はお金と能力がないからこそ、このコミュニティの中でなら生きていけるということ。コミュニティの中で足りないものを補完し合う。このコミュニティには、やはりお金のない親世代も加わっているのも特徴。失業した親が、子供世代のコミュニティの誰かから就職先を紹介してもらったりもする。

プア充はマイルドヤンキーとも言い換えることが出来る。この人達は、かつてはフェイスブック、今はインスタグラムの中で繋がり合う光景を知っている人も多いだろう。昼間に会っていた人とその日の夜にインスタグラムの中でもコメントし合うんだよね。ザッカーバーグがハーバードにいた頃にはそんな使い方は想定していなかったに違いない。


このリア充、プア充ともに共通することがひとつある。

たくさんいる友達(コミュニティ)の中で、決して自由ではないということだ。

コミュニティから弾かれてしまうと生きていけなくなるのが共通している。プア充は自分のお金と能力だけでは到底生きていけない。文字通りの貧困に落ちてしまう。だからこそ、自由の無さを受け入れなければならない。自宅には家族以外の人間が常にいたり、自分のプライバシーに他人が平気で入り込んで説教を始めたり、ちょっと変わったことをすると噂話のネタにされてしまう。「付き合いで」どうでもいいような生命保険に入らなければならない。小難しい本を読んでいることなどは内緒にしなければならない。高級ミニバンや何とか系ラーメンの話、40年ローン・自己資金なしで家を買う話、子供がミュージシャンになりたいので専門学校に入れたい話、あとは皇族の宮家の娘の悪口、重大犯罪をした人間を死刑にしろ、などそういうレベルの話に常に合わせなければならない。

悪そうなやつはだいたい友達的な、グレて悪いことしてきたけど親に感謝的な、アレだ。

言い方が適切かどうかは分からないが、足の引っ張り合いとか監視のし合いとか、そんな感じで。


リア充も状況は同じで、お金を稼げなくなったら終わりだ。麻薬や脱税や、もしかしたら傷害事件で逮捕されても、お金を稼げてコミュニティに迷惑をかけなければ弾かれない。でも、お金を稼げなくなったら付き合う価値がない人間になってしまう。そして決して自由はない。あまり乗り気がしない仲間の案件に出資したり、体調が悪くても遊びに出掛けなければならない。

住む場所も自由はない。リア充なら東京の、それもど真ん中で生きなければならない。コミュニティは物理的な距離感も条件とされる。札幌や大阪に住んでいてリア充のコミュニティの中に入ることはありえないのだ。札幌や大阪にも行くことはあっても、あくまでも東京に住んでいることが当然のこととされる。

金は必要以上にかかる。乗っている車も、軽自動車でいいなんてことはない。「金はいくらあっても足りない」と言わなければならない。

高級車セールスマンや保険営業マンが変な成功願望をこじらせてリア充グループに入り込み、骨の髄まで利用されて捨てられる(逮捕される)事件はよく見てきた。1億円の年収がありながら、1億円の借金があり、最終的にはインサイダー取引で逮捕されてサヨナラとかね。自分の会社では成功した営業マンとして表彰されチヤホヤされていたとしても、実態がこれでは目が死んでしまう。

友達でいることはこういう不自由というか危険と隣り合わせだということだ。

でもみんなこの中から抜け出すことは出来ない。食えなくなってしまう。


どちらも友達がたくさんいなければならない。要らないなんて絶対にありえないわけだ。

この二つの「充」タイプの間には、「充ではないタイプ」がいくつもある。そこそこの大学を出て、そこそこの会社で勤めて、結婚して子供がいれば、別に友達なんて作らなくても生きていける。そこで出世すれば、ますます友達は要らなくなる。むしろ友達なんてコスパが悪い付き合いで、自由も奪われるので鬱陶しいだろう。

インスタグラムなんてやらないし、SNSはTwitterを暇つぶしに見ているだけでいい。SNSでリアルの知人が絡んできたら、すぐに辞めてしまう。


友達は要らない論は、この充ではない人たちの論調であって、友達が要らなくても「生きていける」人たちのものなんだよね。

日本社会が貧しくなっていくとしたら、当然のことながらプア充でないと生きていくのが難しくなるだろうね。仕事では豊かになれない時代が来るのなら、友達をたくさん作るほうが、実はコスパがいい生き方だったりする。


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