【LoveRescue】1994②
仕事が終わるのは毎晩朝の4時。
新宿の地上はまだ深夜のままの雑踏だというのに、空を見上げたら澄み切った夏の朝の青色が広がっている。でも街の路地はまだ深夜1時のままだ。
飲食店の仕事じゃないから、そんな時間でもアルコールはまったく飲んでない。長い髪を巻いた厚化粧のおばさんに全身舐め回され、これがぶっといおちんぽなのね、これがぶっといおちんぽなのねって意味不明な喘ぎ方をして俺の上で腰を振ってるのを朝まで見ていただけだ。
おばさんにキスをされるのは平気だけど、それでも少し苦手だった。水分量が少ないカサついた肌、厚く盛ったファンデーション、次の日まで残った揚げパンみたいな感触の唇。ねっとりした口紅の味。
毎日いろんなおばさんとセックスしたけど、朝4時に味わう気分はいつも同じ。自分が、おばさんにがっつかれて食い散らかされるフライドチキンになった気分だった。指先が不潔っぽい油でぎとぎとになって、骨と衣のカスをテーブルの上に散らかすように。
セックスが癒やしだなんて、そんなもん嘘だよ。セックスなんて誰とでもできる。誰にでも我慢汁垂れ流してやることができる。それが嫌か好きかの違いは多少あるけど、基本的にセックスと感情は関係ない。
でもたいてい、客のババアは自分の感情の毒で、自分自身を殺してしまうんだけど。
油まみれになった身体を洗い流すように、俺はその頃毎朝必ず同世代の女とセックスしていた。相手はセフレだったり、彼女だったり、誰もいなければ風俗だったり。ちんぽ擦り切れるほどセックスしたあとで、さらにセックスしなきゃ帰れなかった。フライドチキンを食った後の烏龍茶みたいなものだ。
こういうのを見聞きすると、平凡で臆病な人生のやつらは必ず言う。セックス依存なの?とか、病気だね?とか。21歳の俺から言わせてもらえれば、きっとお前らには何も分からねえよと。俺が執着してんのはセックスじゃねえよ。生きてることそのもの。この猥雑な街で、必死に生き残ろうとしてることそのものだ。未来があるわけじゃない。でも、心臓の脈をまだ止めるわけにはいかないという意味で。
ミナは、その頃の俺にとって便利な存在だった。仕事が終わる夜明け時には毎日待ち合わせていた。
空が白んでくると、夜の街の狭い路地の闇はもっと深くなっていく。暗い路地のさらにその暗い奥の突き当りに、毎日必ず寄るおでん屋があった。汚い店の狭いテーブルでミナとおでんを食べた。話すことはお互いの今日の出来事とか。歯磨きするときに使うようなプラスチックのマグカップに、渋すぎる赤ワインを注いで二杯飲むのが習慣だった。
時間が来ると店を出て駅までふらふら歩き、始発の電車に乗って、たいてい俺の部屋に一緒に帰っていた。
そこでシャワーを浴びて、相変わらずひどいセックスをした。普通の狭いアパートなのに明け方に大声で喘いでいた。隣に住んでるのは社会人らしいカップルだった。ブスな女と、小太りの縮れ髪の男だった。さぞかし迷惑したと思う。
セックスが終わると死んだように眠った。ミナは俺の頭に顎を乗せて眠るのが癖だった。
アキラの頭皮は父親と同じ匂いがする、と言った。そんなに臭いのかよって俺は言ったけど、意外とうれしかったのはきっと、ミナの父親をどんなオトコか想像するのが楽しかったからかもしれない。なぜなら、ミナには最初から父親なんかいないからだ。父親の匂いなんて、ミナの美しいファンタジーの世界だから。
ミナという女は、ありえないほどのワガママなやつで。長ネギとにんにくが苦手で、中華料理屋に行ったのに、ネギを抜いて作ってくださいと押し通す18歳だった。じゃあ中華なんか行くなよって話なんだけど、中華料理が好きとか言う。
アキラ、昔の彼女の話聞かせてよって言うから、彼女として付き合った数人のことを教えた。そしてどんなセックスしたか教えてよってさらに言うから、詳細に教えた。するといきなり激怒して、もう別れる、もう会わないって泣きながら飛び出していく。お前が言えっていうから言ったんじゃないかと、21歳のガキだった俺でも思ったけれど。
キレて飛び出したわりに、必ず一時間で戻ってくる。そしてベッドに入ってきて、バカとか最低とか死ねとか俺を罵倒しながら眠る。やっぱり俺の頭に顎を乗せて。
その割に俺の仕事のことは気にしてなくて。
俺もまた、ミナが仕事で何をしているのかなんて気にならなかった。興味がないわけじゃないけど、興味を持ってもどうしようもないことがあるときは、興味を殺す方法を身につけていた。それは夜の商売のせいじゃない。虐待の中で育った俺は、叶えられないものには興味を持たないほうが自分のためだと思うのが身を守る術だったから。
だからミナのことは、実はよく知らなかった。福岡生まれで、中卒で、父親がいなくて貧乏な育ちで、17歳で東京に出てきて、夜の仕事をしていて、今は俺の前にいる。それ以上の過去の情報は知らなかった。俺とは毎日一緒にいたけど、たぶんどこかの金持ちのおっさんとも会っていただろう。おっさんと一緒に、彼氏である俺の馬鹿さ加減をネタにして笑っていただろう。そんなこともあるだろうけど、俺には別にどうでもよかった。
今日は仕事が休みだったと思うけど何をしていたの?って質問なんか俺はしたことがなかった。興味がないわけじゃないけど、聞いてもどうしようもない。ヘタしたら嘘をつかせるだけだし。だったら聞かないほうがいいと思って。
夜の世界では、下手な質問は相手を嘘つきにさせるだけだ。
その代わり、俺が好きだったのは、セックスした後でベッドの中で聞く、福岡の話だった。行ったこともない福岡の空や中洲の景色、風、雲、夏の暑さ、そして美しい女たち。東京の片隅の狭いアパートで、朝、カーテンから外の明かりが差し込んでくるベッドで、ミナの甘ったるい声で想像した福岡はものすごくロマンチックな場所だった。
しかし初めて福岡に行ったのは、37歳になったときのことで。想像した通りの場所だったのに驚いた。ミナという女は、言葉を正確に紡ぐことが出来る女だったのだろう。
ミナとは未来の話もしなかった。来年の今頃は2人はどうしているんだろうなんて、俺も考えてなかった。
ある日いつものように朝に俺の部屋にいると、郵便受けがカタンと鳴った。ミナが玄関に行き、一枚のハガキを持ってきた。俺は寝ぼけたままそれを見ると、差出人はロンドンいる女からだった。
高校生のとき、教育実習で来た大学生とセックスしたんだ。むっちりしたケツの美女だった。その女はその後イギリスに留学し、たまに俺にハガキをくれた。
そこには、ミュージカルのキャッツは最高だったよとか、近況が書かれていた。
この人だれ?
ミナが聞くので、ありのままを臨場感たっぷりに言った。聞かなきゃいいのに。案の定ミナは逆上し、ハガキをビリビリに破った。
ミナのほうが若いし、圧倒的にかわいいのにね。キャッツの葉書が紙くずになってしまった。
俺は黙って見てたんだけど、いきなりミナが泣き出して、こう言った。
アキラ、お願いがある。
なんだよ。
お金貸して。
いいよ。いくら。
1000万円。
は。
当たり前の話だけど、21歳の俺にもミナにも1000万円は安い金額じゃない。それを何に使うかは聞くつもりはなかった。なぜなら、ミナは俺の彼女だから、それだけ。
1つだけ聞くけど、それはおまえ自身のトラブルの金なのか?
そう訊いたら、ミナは涙とかヨダレでテカった顔で頷いた。
仕方ない。俺は自分の女が困っていたら、俺だけは助けようと思う。自分の女が悪者扱いされていても、実際悪者でも、俺は仲間でいようと思ってる。
なんとかするよ。
俺はそう言った。1000万円。1000万円。
もちろんそんな金は俺にはない。
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