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【TheWeekend】雪で見えなくなる波間のこと

俺が住んでいたアパートから歩いて20分くらいのところに、私立大学があった。

俺のような夜の街で生きている荒んだ男にとって、そこは常に嫉妬のような諦めのような感情を呼び起こすような場所だった。毎日その大学の敷地に吸い込まれていく若者たちは、いつも絶えず笑っていた。友達同士だったり、もしかしたら恋人同士なのか、いつも群れては大声で笑っている姿を見ていた。

俺も20歳だった。20歳の冬。
俺だってもし病気ではなかったら、もしあんな育ちではなかったら、なんていつも「もしも」の世界ばかりを夢見ていた。俺だってあんな風にリュックを背負って、大学に通っていたのかもしれないと。

俺は金髪の頭をして、痩せこけていて、白い顔をしていた。俺が吸い込まれていくのは、大学の門ではなく、夜の街、ラズベリー色の世界っだった。そこにいるのはパーカーを着た大学生たちではなく、甘い声で俺の身体をベタベタ触りながら彼氏に殴られた痣を見せてくる甘い声の18歳や、作り物のように完璧な曲線を描くお尻を触らせようとする年上の夜の女、女らしさを毛嫌いするけど胸の谷間がレザージャケットの奥に見え隠れする20歳の女、そんなやつらの世界。

みんなどこから来たのか、なぜここにいるのか、俺に話してくれるくれるけれどそれが全部作り話であることは知っていた。

漆黒のロングヘアが美しかった19歳の少女は都内の開業医の娘ということだったが、ある日コンビニの前の公衆電話でどこかに電話している姿を目撃した。俺がすぐ後ろを通り過ぎた時、話しているのが日本語ではないことに気づいた。詳しいことは何も分からないけれど、たった20年程度しか生きていない子達でも、それぞれ想像を超えた場所から、様々な物語を生きてここにいるんだと思った。

俺だってそうだ。俺は、青森の田舎町から上京してきたことはみんな知っていたけれど、それ以外は本当のことは誰にも話さなかった。

俺は俺だけの物語を、1人で抱え込んでいた。それがあの夜の街での生き方だった。

俺は明け方に家に帰る。あまり眠るのが得意ではない俺だったから、冬の夜の冷たい空気を引き裂くように空が白くなっていくのを、ベッドの上から眺めていた。次第に眠くなっていき、気がつくと正午を過ぎていた。

近所のコンビニに毎日飲み物を買いに行くのが日課だった。キャップを被って金髪を隠しダウンジャケットを羽織り、歩いてセブンイレブンに行く。

そんな時にいつも、私立大学に通う学生とすれ違った。

大学生の女の子とすれ違う時、いつもいい匂いがした。夜の街では嗅いだことがない清潔な匂い。誰かの唾液や体液で汚れていない女性の匂い。

俺はといえば、シャワーを浴びても消えることがないアンテウスの匂いがしていた。指の先から、大人の女の匂いが消えやしない。しかも何十人分も。自分がとても不潔に感じたものだった。

そんなある日の夕方。セブンイレブンの前で学生証を拾った。

男子学生のものだった。財布の中からすり落ちたのだろう。生年月日を見ると俺と同じ年。顔写真がついていて、可愛いおぼっちゃんのような顔立ちだった。

せっかくだから、大学に届けてやろうと思った。事務所か何かそういう場所があるだろうから。

歩いて私立大学まで行き、中に入ってみた。人気のない裏門から恐る恐る、擦り切れたコンバースのゴム底でアスファルトを踏みしめて。

夕方の大学は人気がなかった。まだ講義中だったのかは分からない。田舎の高校の校舎とは全然違って、何か俺には手の届かない立派な建物に見えた。試しに建物の一つに近づいてみると、そこはどうやら図書館のようだった。

中を除くと、学生が数人いるのが見える。

入れるだろうか。部外者だから追い出されるだろうか。追い出されてもいいから入ってみたいと思った。

重いガラス扉を押して開くと、ロビーが広がっていた。フロアの向こう側に事務所のようなスペースがあった。「大学関係者以外立ち入り禁止」と看板があるが、セキュリティは何もない。俺は呼び止められることもなく、学生に不審な顔をされることもなく、中に進んでいくことが出来た。

真冬のことだから、暖房で空気が乾燥しているのが分かった。咳ばらいを一つして、書架に近づいた。本の背表紙を見ていくと、随分と難しそうなタイトルばかり。俺が読めるようなものはないなと思った。

試しに一冊だけ手に取って中を開いてみても、日本語とは思えない文章だった。数行すら読めない。意味が分からない。

へえ・・・頭いい人が来るところなんだねと思いながら、壁が大きなガラスになった階段を登って二階に行った。

窓側の席には学生たちがそれぞれ勉強しているのが見えた。

そこには「民俗学」と書かれてあった。また本を手に取って見ると、驚いたことに写真集のようだった。さらに驚くことに、俺の生まれた故郷の街についての本だった。

冬の海。激しく雪が降り、海の向こうは暗くて何も見えない。宿命に耐える漁民のような老人たちが、うつむいて働いている。昼なのにヘッドライトを点けた古い車が走っているのも写っている。

何について研究した本なのかは分からない。けれど、俺はその写真集を見て激しく気持ちが乱れた。18歳まで、この街で、悲しさだけを抱えて生きていたんだ。ほんの少しの恋愛と、揉め事と、怒声と、殴られる時に骨が軋む感覚と。

高校生の時に付き合っていたあの子はどうしているのかなと思った。実の母親は俺が上京するときも俺を無視していたけれど、元気で暮らしているかなとも思った。

そんなことを巡らしていると、急に眩暈がした。息が苦しくなった。

気づくと横に女性立っていた。

「大丈夫ですか?すごい汗ですけど。」

水色のニットを着た、胸の大きな女性だった。きっと大学生だろう。

「大丈夫。ありがとう。」

特段感情も込めずにそう礼を述べ、俺は図書館を離れようとした。

「ちょっと」とニットの女性が俺を追いかけてきて呼び止める。「体調が悪いのでしょう?脚が震えてるよ。よかったらラウンジで水でも飲みましょう。」

見ず知らずの男に随分と優しいんだなと思った。

女性に腕を抱えられ、エレベーターで一階に降りて、その奥にあるラウンジまで歩いて行った。少しタバコの臭いがした。

ソファに座ると、ニットの女性は俺に水を差しだしてくれて、俺は勢いよく飲んだ。こめかみがドリルでえぐられる様に痛かった。

「大学の人しか入れない場所なのになぜいたの?」と女性が言う。

「すいません」

「別にいいんだけど、明らかに大学生じゃないから目立ってたよ」

「ねえ」とその女性は俺にまた触れた。「わたし、あなたのこと知ってるの。」

俺は無表情を貫こうとしていたが、動揺は隠せないようだった。

「アキラ。そうでしょう?」

なぜ分かるの?と俺は頭痛を感じながら訊いた。すると女性は笑った。8月の夏休みに、あなたと新宿で飲んだのよとまた笑う。

ああ、そうか。付き合いで参加したコンパがあった。君もいたんだね。

と俺が言うと、女性が言う。

「あの時は何も話してくれなかったけど、あなたの髪の色で覚えていたの。」

少し落ち着いて、よく顔を見ると、誰かに似ていた。誰かは思い出せないけれど。

俺は一流大学という場所に興味があって入ってみたかった事を正直に言った。俺の人生に縁がないところだから、と。それで図書館に入ったんだけど、故郷の写真を見て動揺して取り乱してしまった、二度と帰らないつもりの街だから、と。

ふうんと、女性は笑顔で俺の話を聞いていた。

「あなたはまるで文章を読み上げるように、感情のない言い方をする。」と俺に言った。

「そうか、よく言われる。」

「面白い人」

「大学ならいつでも案内するから、いつでも私に連絡して。」と、小さな鳥の絵が描かれたメモ用紙に電話番号を買いて、俺にくれた。

「それと、もっと、その生まれた町の話を聞かせて。」

「必ず電話するよ」と俺は答えた。

「あ、それと」俺は言う。「学生証を拾ったんだ。どこに届けたらいいかな。」

女性は学生証を見て、俺の手から奪い、近くのゴミ箱に捨てた。

「アキラ様が親切をしてあげるような世界の男じゃない。雑魚だよ。」と笑顔を見せた。

俺はお礼を言って、家に帰ることにした。

またねって、女性は言う。

「名前を聞いてなかった」

「じゅんこ、です。」

誰かと同じ名前だった。

白いスカートに水色のニット、細い身体。長い髪。白い肌。

「もうどこで会っても忘れないよ。」

「さすがね。」じゅんこは笑う。

よく笑う素敵な子。

俺が歩いて去るとき、振り返るとじゅんこは大きく手を振っていた。

その夜はまたいつものように仕事に出かけた。客の女性と食事をして、ラブホテルに入ってシャワーを浴びる時、ふとじゅんこのことを思い出した。

それと、あの生まれた街の冬の海と雪。口の中に、血の臭いがする気がした。

明日の朝、いきなりだけど、じゅんこに電話をして食事に誘おうと思った。

明け方、また家に帰る道すがら、俺はこのままどうなっちまうんだろうなと思いながら空を見上げた。星は一つも見えなかった。


ある日の出来事をスケッチしただけなので、続きはありません。

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