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ぎこちなく眠る深夜2時に

「見て、私の顔。幸せそう。」

 

そう言って、俺に写真を見せた。それは春、桜が満開に咲く公園で笑顔で映る女性の姿。撮影したのは俺。

 

俺は自分の怒りがコントロールできなくなって、彼女を責めていた。なぜ怒ったのかなんて分からないし、たぶん、大したことじゃないのだろう。きっと俺はひどい言葉を彼女にぶつけたのだと思う。もう別れると騒いだのだと思う。

「別れたくないよ」

そう彼女は言い、俺に写真を見せたんだ。

 

俺はその写真を見て心で泣いた。申し訳ないと、ごめんと何度も繰り返した。写真の彼女は本当に幸せそうな顔をしていた。撮影した日のことを覚えている。その日も朝から機嫌良く過ごしてくれていた。見ること、行く場所、全てに嬉しそうな声を上げて、にこにこして。そんな日の写真だった。うわあっていう、楽しんでいる時の明るい声を何度も思い出した。思い出すたびに悔しかった。

自分の壊れていく心が。

本当は、自分のことを全部話したいのに。助けてと言いたかったのに。やっていることはこうやって怒るだけ。怒って全部リセットしようとしている。

 

幸せな日を壊すのはいつも自分。俺だ。嫌な思いをさせてしまうのも俺。思い出を壊してしまうのも俺。

なぜこんなことをしてしまうんだろう。なぜ意地を張ってしまうんだろう。悔しくて心が軋んで音を立てていた。

 

結局、彼女が大人だったおかげで、俺はなんとか落ち着くことができた。でも彼女はずいぶんと傷ついたはずだった。

心の中で彼女に感謝した。そして激しく恥じた。

 

その頃、俺の心の健康が崩れていった時代、俺は自分で自分が制御できなくなっていた。

俺はたくさんの辛い物語を持っていて、たくさんの惨めさを心のハンガーにかけたまま生きていた。

幻聴と幻覚、妄想に襲われることも多くなっていて、ある時など自分が死んでしまったという妄想に取り憑かれてしまった。こういう病気の困るところは、あからさまに頭がおかしい風貌で涎を垂らして徘徊したりしないところ。普通に仕事をして、会話をして、食事をして、社会人として当たり前の生活をしているのに「オレは死んでいる」と思っているところ。理屈などない。一貫性もない。何かを引き金にして、妄想が引き起こされたり、怒りが来たりする。必ずその後、幻聴と幻覚そして倦怠がやってくる。

 

俺は、常に自分がすべて悪いという罪悪感に苦しんでいた。俺の過去の物語を恥じ、恨んでいた。

 

彼女は、いつも電話をしてくれたり毎日の面白い出来事を話してくれたりした。俺は俺の出来ることを一生懸命やろうとした。楽しんでもらえたらと思って色々なイベントを企画した。壊れていく心を必死に両手で抑えながら、怒りどころかすべての感情を殺しながら、ただ彼女に対して申し訳ないという気持ちでいっぱいになっていた。

 

でも、俺が抱えている罪悪感のような感情が、彼女との人間関係に落とした影は、どんどん濃くなっていったと思う。影が濃くなるにれて、ふたりの関係性はどんどん薄くなっていった。

 

ある春のこと。

「来週、会えるかな」俺はそう電話で言った。

「あのね、悪いけどいつまでもこうしていられないの」

 

それが最後の言葉だった。

 

関係性を壊したのは、俺の病気ではなく、俺そのものだった。あの写真の幸せそうな笑顔を壊したのは、俺だった。俺のような迷惑な存在は、黙って去っていくべきだと思い納得した。

 

それからしばらくの間の記憶がほどんどない。

脳が痺れるような毎日で大けがをしたりした。一人で家で寝込んでいたと思う。仕事はしなかったが、お金に困っていなかったので毎日ぼんやりしていたんだろう。

 

そんな時ほど、男ってモテるものだよ。これはいつもそう。

 

「アキラ、暇そうだね?」

「アキラくん、久しぶりに会おうよ」

「アキラって、彼女いないんでしょ?会おうよ」

「アキラ、拉致っていい?」

「アキラ、たまにうちにおいでよ」

「アキラ、たまに2人で会いたい」

「アキラ、会いに行っていい?」

 

真夏の銀座で、日傘をさした色白の31歳の美女。

真夏の西新宿のホテルで、夜景を見ながらお酒を飲んだ26歳の美女。

真夏の歌舞伎町で、酔っ払ってしまい笑いが止まらない22歳の美女。

その年の真夏は、美女たちのおしくらまんじゅうになった。

これでもかというほど。美女たちの身体の匂いと汗にまみれて。

 

「アキラ、楽しい時間をありがとう」と全員が俺に言ってくれた。

「アキラみたいに優しい男はいないよね。」と本気でみんながそう言った。

 

その都度、俺は落ち込んだ。

 

違う、俺は人を傷つけてしまうような人間で生きている価値がないかもしれないんだよと何度も心で思った。ごめん。

 

「ね、デートのお別れの時は女性にハグするものよ」と、色白の31歳に言われ、改札の前でハグをした。ノースリーブの白いワンピースの彼女は、細く折れそうな身体だった。俺は手を振って帰るのを見送った。姿が見えなくなるまで手を振った。

「こんな優しい人いないよね。ほんと楽しい時間をありがとう!」と姿が見えなくなってからメッセージが届いた。

 

ありがとうとその時も思ったけれど、ごめんと心の中でまた謝っていた。

 

それからしばらく、優しい人以外の印象を与えたくなかったので、多くの女性と表面的な関係を続けていた。

 

冬が過ぎ、また春がやってくるころ。

あの言葉を思い出して、また心を軋ませていた。

「見て、私の顔。幸せそう。」

 

その昔の写真は、今でも俺の手元にある。今でも本当に幸せそうに微笑んでいる。

 

あれからも、俺は自分の人生に折り合いがつかず、ぎこちなく眠る夜を続けている。

 

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