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別れ、強がり、未来。

「ぼくも連れて行って」と俺は泣きながら言った。

実の母親が俺と永遠に別れてしまうとき、俺を置いて家から出ていくとき、「パパと出かけてくるね」と俺に言ったんだ。俺は泣いた。もう会えないと、子供の俺も気づいたんだ。だから言ったんだ。

「ぼくも連れて行って」と。

母も父も、それが別れだった。そのあとは気が狂ったように泣いて過ごしていた。新しい父母も手を焼いたと思う。障害のこともあって、俺は泣くしかコミュニケーションが取れない子供になった。

 

そのあと18歳で東京に出てきて夜の世界で身を隠すように生活していた時も、別れるということに精神が勝てるとは思えなかった。好きで付き合っていた彼女と別れてしまうとき、別れの予感がするとき、10代だった俺は激しく動揺した。新宿の夜の街をどう歩いたのか覚えていないほど。うつ向いて泣いて、職安通りを歩いたことを覚えている。

誰かと別れてしまうと、いつも母親に会いたくなった。でもその母親さえ俺を拒絶し別れていったんだけど。でも、大きな別れを経験した19歳の時、俺は夜に母親に電話をかけた。出てくれないはずの電話に、母親が出てくれた。何を話したかは覚えていない。緑色の公衆電話に手をかけて、俺は泣いた。嬉しかったんじゃない。孤独を本当に痛感したからだった。

 

母親には虐待されていた。まだ若かった母親だから、俺に憎しみなんてなかったと思う。きっと感情をコントロールできず親でいることが出来なかったんだろう。発達障害を持つ手のかかる俺に向き合うことが出来なくて腹を立ててしまったんだと思う。それでも、自分を捨てた母親と会いたいと思った。それは一度も叶わなかったけれど。叶ったとしても辛く寂しい気持ちになるだけだったろうけれど。

 

出会いがあれば別れがあると言う。でも別れだけが人生だと時々思う。出会うという奇跡に素直に感謝出来ない自分に、嫌気がさしていた時代が長い。
奇跡で出会った彼女をまるで自分の子供のように大切に可愛がり、ごはんをきちんと食べているか、困っていることはないか、寂しくないか、悲しんでいないか、といつも思い続けている。愛とは貢献のことだと本気で信じている。

でも、同時に、俺の中ではいつも恐怖と戦っている。あの頃、母親に捨てられた時の恐怖を忘れたことが一日たりともない。その恐怖は俺の恋愛を激しく歪ませてきた。恐怖は怒りに変わる。怒りと恐怖から、いつの時代も彼女を理不尽に責めたりもした。それはもしかしたらDVを受けて育った人間の、DVをする精神構造かもしれない。

 

俺には、23歳の時に経験した大きな別れの経験がある。それは死による別れだった。たった一度しか抱き上げることができずに病院で亡くなってしまった。今でも思い出すと泣いてしまうほどのショックを受けた。その死を、俺は自分を責め続けた。何もしてやれない自分と生き延びてしまった自分に、死にたくなるほどの嫌気がさした。その経験はつい最近まで誰にも話せなかった。

 

「自己開示が苦手なのね」と彼女に言われたことがあるが、俺は苦手というより怖いんだと思う。俺を構成している過去の記憶を言葉にして話すことが。

別れ、強がり、死、痛み、孤独、期待、失望、そしてまた孤独。

 

それでも、少しずつ言葉にしていこうとしている。文字ではなく話し言葉で、伝えようとしている。

残された自分の人生を、恐怖や孤独、怒りではなく、笑顔と信頼で満たすことができたらと思って。

未来の約束をできる人間関係にしたいと思って。

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