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【LoveRescue】色が無くなるほどの速さで④(美彩の場合)

アキラという男のイメージとはかけ離れた財布を持っていた。二つ折りの革の財布。きっと田舎のショッピングセンターのテナントで買ったような安物。縁が擦り切れているし、たぶん最初はきれいなブラウンだったはずの革が濃い色に変色してる。ズボンのお尻のポケットに財布を突っ込んでいるのがちょっと子供じみて見えた。

たくさんいる女たちの誰もこの人に財布をプレゼントしないんだなと不思議だった。
あの「アキラ」だと言うのに。

わたしがアキラと出会ったのはふたりとも18歳だった8月。

同じ年のアキラは、その頃はまだ「アキラ」ではなかった。ダイエーでアルバイトをしている童顔の男の子で、わたしの高校の同級生のバイト仲間ってことで一緒にご飯食べたのがはじまり。たしか、渋谷で。
あまり口数が多い子じゃなくて、ビール飲んで鶏のから揚げばかり食べてた。
同級生の子がアキラを狙っているって聞いていたので、あまり馴れ馴れしくしなかったけれど。でも、わたしにサラダを取り分けてくれたのを見て、結構いい子なんだなと思った。

「美彩ちゃんっていうんだね」とわたしにちゃん付けで呼ぶ同じ世代の男の子に初めて会った。

わたしの彼氏はサラダもとりわけないし、わたしのことは呼び捨て。10歳も年上なのに頼りなくて、お金もない。おまけにアムウェイにはまって俺はリッチになってハワイに移住するとか言ってる。わたしも怪しい集会に連れていかれそうになったけど、未成年だったので助かった。ハワイに移住するどころか家賃を4か月も滞納していて、そろそろ家に帰ったら家財道具を外に出されているかもしれない。成功するまえから成功者のようにふるまうことが大切とか言い出してBMW318をローンで買ってしまったし。そのローンだって滞納していて、いつクレジット会社に持っていかれるか分からないよ。
なんでこんなたちの悪い貧乏神みたいな男と付き合ってるんだろう。

会計をするとき、びっくりした。
女の子4人とアキラの5人分の会計を全部アキラが出してくれたから。
「バイト代入ったから」とアキラは言ったけど、ダイエーなんかのアルバイトでそんなお金が入るわけない。きっと家がお金持ちなのか、儲かるバイトを他にもしてるんだって思った。
女の子たちはみんなびっくりして、そして喜んでいたけど。

じゃあねって言って一人でアキラは歩いて帰った。渋谷の駅のほうに向かって歩いていくのをずっと見てた。黒いTシャツの背中に、Echo&The Bunnymenって書いてあった。どこかのバンドTシャツ。日比谷の野音で誰かわたしの知らない人のライブを見てきたよって話をしていた。音楽が好きなんだって。

どこに帰るんだろう?ってわたしは思ってた。そういえば、誰もアキラが住んでいる場所を知らなかった。

その年、1990年の12月。

アキラと偶然再会したのは、新宿だった。わたしは事情があって風俗店で働き始めてた。わたしはお金が必要だった。お金のない彼氏を助けるために。
仕事終わりに、深夜三時までやっている中華料理店に女の子たち3人で行くと、店の端の席に見覚えのある男の子がいた。うつ向いて炒飯を食べてたのは、8月にから揚げばかり食べてたあの子だった。
彼のこの街での名前は「アキラ」で、8月の時と印象がまるで違ってた。もっと、こう、心の中が少し腐っているような感じがしたよ。きっとこの街で腐ってしまったんだ。

「アキラくん、今度相談乗ってよ」
「いいよ」

アキラは軽く返事をしてくれて、明日の同じ時間にこの近くの喫茶店で待ち合わせすることにした。

次の日の夜に、アキラは30分遅れて喫茶店にやってきた。
ごめんねって幼い顔に笑顔をいっぱいくっつけて。ほんとに子供みたいな人。

「それで、美彩ちゃん、相談ってなに?」
わたしは話し出す勇気がなかった。だから急に黙ってしまった。あの、あの、って口ごもりながらなんとか話そうとすると、「ゆっくりでいいよ」と言ってくれた。

アキラはコーヒーが好きじゃないんだと言って、メロンソーダを頼んで飲んでいた。

わたしは、、、10歳年上のアムウェイの彼氏と付き合っていたけれど、彼氏と同じ年のアムウェイ女と付き合うことにしたからって勝手に去っていった。全く悲しくなかった。甲斐性なしの夢見がちなおっさんは消えてくれてせいせいした。今まで貸したお金は返して欲しかったので借用書を書かせた。意味なんかないけど。

そのあとで付き合い始めたのは、わたしより2歳年上の背の高いかっこいい人。男友達に紹介された。
かっこいいし、話も盛り上がるし、わたしが知らないことを教えてくれる。わたしが夢中になるのも時間の問題。

でも、その彼氏からある日、2万円貸してくれない?って言われた。わたしも夜の仕事してるからお金だったらあるんだけど、何に使うの?って言ったら突然泣き始めてね、借金返せなくて取り立てが家までくるんだって困ってた。わたしは仕方ないよねって言って、財布から2万円を貸した。わたしの財布には20万円が入っていて、泣いていたはずの彼氏は「いっぱい入ってるね」と急に顔つきが変わった。あ、と思ったけどわたしは気持ちを飲み込んだ。

彼氏は付き合ってすぐに、私が借りた百人町のアパートに転がり込んできた。実家に住んでいると言っていたけど、いつも服が同じだったし、たまに身体が臭かった。きっと実家も追い出されてあちこちに居候したり野宿していたんだと思う。

わたしはこういう男を放っておけない。つまりダメ男。仕事が見つかるまでわたしがお金を全部出しても良かったし、仕事が見つかっても一緒に暮らしてほしかった。そうすればずっとわたしの近くにいてくれるから。

こういうのを依存っていうって雑誌で読んだ気もするけど、わたしは親がいなくて川崎の親戚の家で育った。その家では居場所がなかった。いつも寂しいから誰かが一緒にいてほしいんだ。それを依存と呼んでもわたしは構わない。わたしには依存が必要なんだから。

でも、わたしはこの一か月、仕事がろくにできてない。彼氏に叩かれて体に痣が出来てる。こんな身体じゃ買ってくれるひとがいない。苦情を店に言ったお客さんがいて、傷が治るまで店に出てこないでって言われてる。当たり前だけど風俗嬢って仕事がないとお金も入ってこないでしょ。

自分ひとりだったら一か月休んだっていいけど、彼氏がたくさんお金が必要で。借金もあるし訳わかんないことにお金たくさん使うから。お金を渡せなくなると彼氏はよその女に頼るっていうし、でもお金がないと言うと叩かれるし。
それで、アキラにお願いしたかった。

10万円、いや、5万円でも2万円でもいいから貸してほしい。必ず返すから。
きっとアキラは断らないはず。断れないはず。あの子優しい子だから。

ずるい私は理由を嘘をついた。お母さんが病気でお金がかかるって。お母さんは子供のころに死んだけど。

そうしたらアキラは貸すよと言って、明日朝になったらATMで下ろして貸すからと言った。15万円。
来月返すからってわたしは言ったけど、顔がにやついていたかもしれない。

自分を最低だとは思わなかった。でもアキラは優しいと思った。これでわたしは安心できるんだって思った。

翌月に仕事を再開できたけど、わたしは彼氏に渡すお金と、彼氏の代わりに返す借金が大きすぎて、アキラへの返済まで回らなかった。それどころか、またアキラに借金を申し込んだ。そしたら5万円貸してくれた。

アキラのことを彼氏に話したら、そいつからさらに10万借りてこいと言われて、また借りに行った。そしたらまた貸してくれた。借金は30万円になった。

なぜアキラが貸してくれるのかは分からなかった。想像することも止めた。想像なんてしなくてもアキラは勝手に貸してくれる。それくらい貸せるほど金回りがいいんだ、アキラはきっと青森のお金持ちのぼんぼんなんだろうから。

そうして1991年になって、桜が咲く春がきて、夏がきて、秋がやってくる頃、アキラからの借金は380万円になっていた。
さすがにアキラはそう簡単に貸してくれなくなった。
貸すのはいいけど、返せないよなって言われてしまって。俺はいいけど、お前はこれから苦しむんだから貸せないって言われてね。

借りられなくなったら、彼氏は激怒してまた殴られるようになったんだ。彼氏はこのところいつも焦ってた。あまりよくないところから借りているみたいで、サラ金だったら返済日も知らんぷりしてたのに、今は返済日が近づくと苛立つようになった。怖い人から借りてるんだと思う。
違う女をアキラに当てがって、その男に借りさせて持ってこいって彼氏が怒鳴る。

わたしはそうするしかなかった。口答えしたらきっとまた殴られる。
わたしはこの彼氏に依存していたけど、自分がこんな生活をしてるなんて思われたくなかった。だから彼氏とは別れたってまわりに嘘をついていた。

同じ店の菜摘っていうトロい子がいた。新宿育ちのお嬢様で、頭が良くない。風俗嬢なんて向いてないのになぜやってるのかも分からない。きっとバカなんだと思う。あの子をさしむけて、アキラにお金借りさせようと思った。わたしがアキラに入れ込んでいて、菜摘を誘って食事に行って恋を成就したいっていうストーリーで。

予想通り、約束は取り付けることができた。問題は彼女にどうやってお金を借りさせるかだけど、菜摘はバカだからそのままお願いすればなんとかなると思う。あと、アキラはわたしを見て、お金返せって言わないか不安だけど。返さないわけじゃない、返せないんだ。返すお金がないし、もっと借りなきゃならないんだ。わたしは風俗嬢だからサラ金でも貸してくれないし、クレジットカードもキャッシングを目いっぱい使ってそれも返してない。アキラに頼むしかないんだよ。

でも待ち合わせの当日、店に知らない男の人から電話が来た。

「あなたの彼氏のことで、部屋に上がって待ってるよ」

声だけでも怖い人だってことが分かった。お店にたまにやってくる怖いお兄さん達と同じ、スムーズじゃないしゃべり方だった。
慌てて菜摘にキャンセルをして、適当な理由を言って、自転車で家に帰った。途中で人にぶつかりそうになって怒鳴られたり、車に轢かれそうになったりした。
アパートに着くと、中には男の人が2人と彼氏がいた。彼氏はうなだれて正座している。男の人2人はどちらもスーツを着ていた。でもサラ金の社員みたいなスーツじゃない。この界隈で人を怖がらせる職業の人が着ているあれ。

「お嬢ちゃん、彼氏にちゃんと金返すように説教してよ。こっちは銀行じゃないんだから困るよ。ぼくたちお給料もらえなくなっちゃうよ」

明日まで用立てなきゃならないお金は35万円。それは全部利息。来週も同じ額。どういう契約でどういう計算なのか知らないけど、違法かどうかを言える空気じゃなかった。彼氏は今夜中にさらに10万円を要求されてる。これから親のところに借りに行こうかと言って、電話をかけさせられてた。何度も電話してやっと誰かが出て、震える声でお金を貸してくださいと頼んでいた。

男二人は大声で話す。こんな夜に近所に全部聞こえてるはず。
引っ越してきたとき、ここはわたしの唯一の居場所だった。親戚の家で寂しく過ごしていたわたしが、気兼ねなく寝たり起きたりしていい場所。ここはわたしの人生のスタートの場所だった。

でもこんな風に、わたしのせいじゃない借金でこんなことになってしまってる。
無理に無理を重ねて、アキラにまであんな額の借金をして、菜摘まで騙そうとしてたんだ。

「あ、それからな、お隣さんがお前らのセックスの声が迷惑だって言ってるぞ」そう言って男二人は笑った。

彼らは彼氏を強引に車に乗せて群馬に向かっていった。彼氏は部屋着のまま。最初は暴れたのかシャツの首元が伸びていた。掴まれたのかもしれない。

土足で踏み込まれて散らかった部屋を片付ける気にもならなかった。せっかく買った可愛いカーテンもレールごと外れてしまって、壁に穴が空いてしまった。
情けなくて涙が止まらなかった。
普通の人生にしたかったはずなのに。無理をしてお金をたくさん稼いできたはずなのに。暴言を吐く酔っぱらいに抱かれて、それでも自分だけの居場所を作れたことに誇りを持っていたのに。
やっと買ったテレビも壊れてしまって。タバコをカーペットで踏み消したのか焦げた跡がたくさんある。

自分の人生が情けなかった。

死にたいと生まれて初めて思った。

泣きながら浴槽に熱いお湯をためて、服を脱いで入った。熱いはずなのに熱を感じなかった。
子供のころにいたはずのお父さんと、お母さんと一緒に昔の家で暮らしたいと思った。叶うはずもなくて、わたしはたった独りぼっちだけど。
こんな人生はリセットしてもう一度やり直したい。もう一度生まれ変わりたい。生まれ変わったら、こんな街でこんな仕事をしてこんな性格になってこんなみっともない人生にならないようにしたい。また同じ人生になるのかもしれないけど。

美彩というわたしの人生は、こうして泣きながら終わろうとしてる。

あ、テーブルの上でコーヒーがこぼれていたなって思うころには、もう目の前が暗くなり始めていた。

痛さも感じなくなって、暗い部屋の中から誰か優しい人影がふたつ、わたしを迎えに来てるような気がした。きっと、父と母だと思う。

こんな泣きながら死ぬ人生にして、両親にごめんと言いたかった。

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