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モテとは信仰である

Twitterなどでよく見かけるのは、「人間なんて信用できない!」「謝っても許さない!」という言葉だ。人間なんて人間なんてと随分と幼稚な悲鳴をあげている。

いつまでも何を言っているんだと、俺は白目を剝いてしまう。

何を当たり前のことを吠えているのだと。いつまでそこにいるつもりなのだと。
人間なんて信用できるものではないし、謝ろうが許したくない人間などごまんといるものだ。
当たり前の話だ。

しかし、問題はそこからである。
俺は人間を信じているし、謝る人間を許そうとしている。謝らなかったとしても、許す努力を日々している。
俺はそれをエロの信仰だと思っているからだ。

世の中にはモテる人というジャンルの人がいる。宿命的にとてつもなくモテる、何歳になってもモテ続けるという人たちだ。その人たちに共通するのは、やはり「人間が好きでたまらない」「他人を全面的に信用している」「他人と自分を許している」という点だ。

彼ら彼女らはとても明るく、笑顔いっぱいに毎日暮らしている。エロに祝福されて生きている。
ニヒルを気取った人間など結局のところモテはしない。

「モテ」とは信仰だ。

モテる彼らにとってもまた、人間社会は悪意に満ち、信用できない場所ではある。救いがなく、理不尽な仕打ちにいつも遭遇する。
でも、常に「モテ」という希望を信じようと努力している。
人間とはすばらしいものだ、人生とは生きるに値するものだと信じようと毎日心に刻んでいる。

信仰とは、信じられるはずもないもの、許せるはずのないものを、信じ許す毎日の努力のことだ。その信仰が揺らぐことは毎日ある。そのくらい人生は過酷なものだ。
でも揺らぐ信仰を取り戻そうと、さらにセクシーな出会いに溺れてみせたり、古傷が残る過去の恋人と強い酒を交わしては冗談を飛ばしてみせたりする。
夜の終わりには、やっぱり人間っていいもんだなと思い直している。

モテる人たちの、明るく在るための努力は並大抵の苦しさではない。
人間なんて!人間なんて!と泣き言を吠えているほうが楽だからだ。ニヒルと気取った方がカッコよく見えるし、Twitterでは同類が寄って来て気分が良くなるだろう。

しかし、モテる人たちにとってはそれは信仰心がない行為なのだ。楽に逃げている。

泣き言を吠えるよりも、信仰を取り戻すためにエロい夜を何度でも過ごしたほうがいい。

当たり前の泣き言をいつまでも吠えているんじゃない。

許す、裏切られる、許す、裏切られる、信じる、裏切られる、信じる裏切られる、そんな繰り返しを何百回と繰り返した末に、信仰心を保ち人間を認めようとする。
自分よりも他人を優先しようとする。人に尽くそうとする。
その明るさがモテだから。

あまりにもモテすぎる人生を送った「モテの信者」は、必ず「なにか大きな存在」の姿が目に見えるようになるよ。

卑屈な男には見えやしない、大きな癒しと許し、そして愛としか言えないものが。

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