見出し画像

【Love Rescue】ドーナツ①

18歳で初めて1人で暮らし始めた部屋には、電話がなかった。

携帯電話もポケベルもある時代じゃない。固定電話しかない時代で、固定電話の回線を引くためには高額な加入権が必要だった。そんなもの青森から出てきた金のない18歳には贅沢品でしかなく。

俺は東京の片隅のアパートで、テレビも電話もない生活を始めた。当たり前だけど俺を訪ねてくる人は誰もいない。音がするものはヘッドホンで聞いている音楽だけ。それと、隣の部屋から聞こえてくる女の子の喘ぎ声。隣に住んでいるのは大学生風のカップルだった。男はテニスサークルに入っているらしく、ラケットと大きなバッグを持っていつも出かけていくのを見ていた。女は実家が近いのか、夕方になると食事を入れているらしい大きなバスケットを持って部屋に入っていった。背が低く華奢で、ボブの髪が可愛らしい女の子だった。夜になると必ずセックスしていた。耳をすませば聞こえるのは、いくいくっていう甘い声。

俺の部屋にはカーテンすらなかった。夜になると窓から街の明かりが差し込んできた。窓から下を眺めると、コンビニや居酒屋、マッサージ店、お好み焼き屋、中古車屋の看板、高校の看板までが電飾で照らされている。こんな光の束は青森じゃ見ることがなかった。俺が育った街では天の川さえ見えたんだ。

俺は壁際に置いた粗末なベッドの上で、いつも本を読んでいた。田舎の不良でセックスばかりしてた高校生だったわりに、俺は小説が好きで眠る前には必ず読んでいたんだ。もちろん、俺が本なんて読むようなガラでもないから内緒にしていた。付き合っていた女の子ですら知らなかったと思う。

東京に持ってきていた本は、たった2冊。フィッツジェラルドの『グレートギャツビー』ともう一冊、ジェイ・マキナニーの『ブライトライツ・ビッグシティ』というアメリカ小説だった。作家志望の若く裕福なニューヨークの編集者が、別れた女に未練たらたらで毎晩クスリと女で遊び呆け、仕事も気乗りせず大失敗しては毎日クズみたいに生きているっていう内容だった。

この当時ニューヨークに住んでいる人に向けた短い小説は、俺のような日本の、しかも青森のド田舎に住んでる高校生にさえ心に突き刺さってくるものがあった。「きみ」という二人称で進んでいく小説が斬新だったからかもしれない。

書き出しはこんなだった。

「 きみはそんな男ではない。夜明けのこんな時間に、こんな場所にいるような男ではない。しかし、いまきみのいるのは、間違いなくこんな場所なのだ。」(高橋源一郎訳)

今読んでも突き刺さる。

それを初めて読んだ当時の俺は、毎日毎日誰かとセックスをし、学校の勉強にはついていけず、優等生君たちとは仲良くなる気もなく、無気力の過ごしていた。高校3年の冬はもう死にそうな気持ちで毎日生きていた。

東京にやってきても俺は、自分が何をしたいのか、何になりたいのか、どう生きたいのかなんて考える気にさえならなかった。

電話がなかったので、近所のセブンイレブンの前にある公衆電話から高校時代の彼女に毎日電話をしていた。

彼女は、青森の地元の大学に入学していた。

毎日毎日俺は電話しているうちに、明らかに俺を嫌がっているのが伝わってきた。あなたはもういいよ、そういう言葉が確かに聞こえていた。

「今日は何してた?」俺は訊く。

「・・・サークル」彼女は言う。

「へえ。どんなサークル?」

「・・・あの、忙しいからもういいかな」

分かったと言って俺は電話を切る。

それでも次の日も電話をかけたりした。そのうち、ある夜、彼女が言った。

「もう、電話はしないでほしいの。彼氏と住むので」

分かった。ごめん。

電話はしないでほしいの彼氏と住むので。その言葉が頭から離れないまま、セブンイレブンでヨーグルトとサンドイッチ、そして新しい小説を一冊買って部屋に帰った。相変わらずカーテンもテレビも電話も冷蔵庫もない部屋で、俺はコンビニの袋を床に放り投げ、照明もつけずにベッドにうつ伏せになった。胃の奥の方から込み上げるものが会ったけど、我慢して枕に顔を埋めたまま、眠ってしまった。

次の日は、午後になるまでベッドから起き上がることができなかった。サンドイッチは乾燥して固くなってしまい、食べる気もならなかった。俺はガラにもなく彼女の写真を持っていた。3枚。まだ高校生で、まだ一緒にいるだけで楽しかった頃、駅でふざけて撮った写真だった。制服姿で2人、周りの大人が怪訝そうな顔をするのも気づかず、笑ってる。決して可愛い子じゃない。もっと可愛くておしゃれな子はセフレにいたけれど。でも俺には彼女っていう存在は常にスペシャルなんだ。それは17歳からそうだ。

俺は写真を破いてゴミ箱に突っ込んだ。また会えたらな、またあんな笑顔が見れたらな、そういう思いも叶わないのは分かってた。

拒絶され孤独になるのは慣れている。

無視されるのも慣れている。

誰かのスペアになるのも慣れている。

都合よく存在を消されてしまうことも慣れっこだ。

理不尽なことを言われ、俺だけが飲み込んで我慢することも。

もう、考えても仕方ない。

俺はこの東京で、まっとうな人たちが眉間にしわを寄せて俺の人格を否定するようなことをぶちかましてやりたい。そう思った。
でも何を?考えても何もなかった。

なにかメチャクチャなことをして、死んでやろうか。

メチャクチャなこと?何を。何も思いつかなかった。

しかし。

俺を夜の世界に導き、「アキラ」と名付けた女と出会うのはそんな時代の話だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?