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恋なのか、痛みなのか(2019年)

10代の恋愛は戦争だと思う。


もちろん恋愛がごっこ遊びでしかない子も沢山いるだろう。


10代の恋愛は人間関係のマナーを学ぶ経験と言う人もいるが、そんな勉強みたいな恋愛ばかりではない。
10代だろうと恋愛は戦争。感情と感情がせめぎ合い、情けないほどみっともない姿をさらし、いつまでたっても大人になれない自分たちを目撃してしまう。激しく求めたり、あるときは卑怯に逃げてみたり、心と裏腹な行動をしてみたり。


俺だって17歳の時の恋愛は心に深い傷になっている。ひっかき傷ではない。もう治癒はしているけれど、肉が盛り上がって醜い傷跡を残しているほどの。


今も覚えている。
絶望的な気持ちになって深夜にソファに突っ伏して声を出して泣いたこと、嫌われているのにまだ気づかないふりをして必死に笑顔を作り惨めな気持ちになったこと、親が心配しているのに朝まで家に帰らず公園でひとりで座ってため息をついていたこと。


しなくていいものならきっと、恋愛なんてしなかった。
でも恋愛がなければもしかしたらとっくに死んでいた命かもしれない。うまくいかない歯車を回し、いつかはがっかりすることになるだろうと想像はしながら濁流に飲み込まれていく。でもそれがなかったら、生きてはいけないのだと。

たかが恋愛に感情を振り回されすぎだと言う人もいる。恋愛に依存しているのかと怪訝な顔をする人もいるかもしれない。主体性がない恋愛に意味があるのかとズレたことを言う人もいるかもしれない。


でも違う。
恋愛とは、多かれ少なかれ傷つくこと。真剣であればあるほど。

誰もが同じだと思う。傷を見て恐れる人もいるし、痛がる人もいる、血が出ているのに気づかない人もいる。傷つくことから誰も避けられない。


恋愛のゴールを「結婚」だと思っているとしたら、将来もっと傷つくことになる。恋愛のゴールは、死だと思ってる。死ぬということではなく、死を迎えるまできっと綱渡りを繰り返し、濁流に溺れながら必死に息継ぎをしていくこと。

恋愛とはトピックではない。どこかの誰かと、ある時期に一緒にいて、こんなことをしましたというだけのトピックではない。
恋愛とは歴史だということ。


過去の感情や意識の流れがあって、それを人生の中で痛みを感じながら溺れている。

たくさんの恋愛をするという意味じゃない。
たった一つの恋愛があって、それ以降の恋愛がすべてごっこ遊びになってしまうこともたくさんある。
恋愛の後遺症を抱えて、一人で生きていくことも恋愛のアフターパーティであって。
感受性が死んだふりをして、斜に構えることだって恋愛の一つ。

恋愛とはトピックではなく、死ぬまで苦しむ感情の歴史のこと。

ありふれたことを言うと、ひとつの恋愛はたぶん奇跡なんだと思う。

誰かと出会い、長い時間を共有し、そして別れてしまう。
なにかの事情で別れた後、また同じ気持ちになれるかどうかは分からない。

同じ条件を揃えてもきっと同じ感情は訪れない。似たような年齢、似たような笑顔、似たような職業、似たような出自、似たような身長、そんなものは何の意味もなくて、ある年齢のある時期にあるタイミングでやってきた、本当に偶然の積み上げで恋愛という感情がやってくるだけ。気がつけば過去の恋人とは全く共通点がない溺愛の恋人が目の前にいる。

奇跡と呼ぶのが大げさなら、偶然かもしれない。最初は興味がなかったはずなのに、どうしようもなく好きな人が目の前にいるという。どこでこうなったの?と思うほど、偶然は目に見えない形で化学反応を起こしていく。

恋愛の相手を「条件」で選ぶ婚活男女や恋活男女には、きっと分からないことだと思う。
分からないと自分に言い聞かせている人だっている。
恋愛が偶然であって、再現不可能であって、死ぬまで苦しむだけのことだってこと、あの恋愛はもう二度と訪れないということ、それを忘れたつもりで婚活をしている人はたくさんいる。

もっと傷つくこと。

それがたぶん恋愛なんだろうと思ってる。

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