【LoveRescue】1994①
1994。
駅の改札口の雑踏。ガード下で反響するイタリアのスポーツカーの爆音。駅舎から出た瞬間の眩しい光と湿度の高い風。風に乗って流れていく白い雲。高い所に見えるホームで電車を待つ白いワンピースの女。長い髪が風に揺れている。
大通りから入った路地。自動ドアが開くと大音量で溢れてくるパチンコ屋の騒音とタバコの臭い。不潔な路地に漂う蕎麦屋の醤油の臭い。すれ違う女の髪の匂いと制汗剤の臭い。疲れ果てたサラリーマンの絶望的な後ろ姿。俺を睨んでは目が合うと逸らす胡散臭い男。
アスファルトに捨てられて踏みにじられた夜の店のビラ。何万人もの人の皮膚が剥がれ落ち、何十年も積み重なったような臭いがするビルの階段。蛍光灯が切れたままの暗い廊下。開けっ放しの窓から、ビルとビルの谷間に吹く風が流れ込んできている。夜がもう近い質感の風。誰か若いオンナの香水の匂い。扉の取っ手の冷たい感触。
重い扉を開けば、オンナたちの甘い声。おはようアキラ、と声をかけてくるガサツで派手なオンナ。おはようと笑顔を作ってみせて、今日も綺麗だねって俺は言う。奥に歩いて行くとでっぷりと太ったオヤジが、おうアキラと手を挙げる。おはようございますと俺は言う。社長だ。
黒い革のソファはひび割れている。真っ青なキャンバスのショルダーバッグを放り投げて、着ていたTシャツを脱ぎ、白いシャツを羽織り、フェラガモの靴を履き、今日会う客からもらったネックレスを着ける。たくさんあるアクセサリーにはそれぞれもらった人の名前が書いたタグをつけて保管してある。
アキラ?そう言われて目を向けると、3歳年上の姉さんが俺の口にピザを押し込もうとする。「服が汚れるよ」って言っても無理やり押しこむので、急いで口に全部入れる。ケツを触られ、またどこかに消える。
ため息を小さくつくと、見たことがない若いオンナが俺に話しかけてくる。本名で、ミナというらしい。18歳。大きく開いた胸元から谷間が見える。大きな目、綺麗な唇、長いストレートの髪、切りそろえた前髪、細い腕。綺麗な色の爪。白い肌。
俺が何か言おうとしたとき、奥のほうで大勢のオンナとオトコが、わーっと笑って声が遮られる。ミナが耳を俺に傾ける。ピアスの石が光っている。そして笑って俺の顔を見る。幼いようで、たくさんの景色を見てきた目をしてる。
まともな育ちなんかじゃない。
俺がもうすぐ22歳になろうとしてる夏のこと。
この世界にも、もう3年半もいる。俺は毎日なにかを悩んでいた。この世界も悪く無い。居場所もいい。金もいい。自由もないようでいてかなりある。嫌なこともたくさんあるけど、我慢できないことでもない。それ以上に楽しいことも結構あるよ、この夜のラズベリー色の世界。
でも。何かについて悩んでいたんだ。もう22歳。これからどうなるのかなんて考えるガラじゃないけど、リセットしてみてもいいんじゃないかって、どこかで考えていたのかもしれない。どうリセットしたいのか、リセットしてどうするのか、どこに行こうと言うのか、詳しいことなんか何も考えもしないで。
いつも乗る電車から、線路のすぐそばに建つたくさんのアパートを見ていた。高いところを走る電車から、3階や4階の部屋が見えた。夜11時。電車から丸見えだというのに、ほとんどの家庭はカーテンをしていなかった。部屋はどれも狭そうだった。オレンジ色の灯りの中で、白いランニングシャツ姿のおじさんが、テレビを見て缶ビールを呑んでいた。違う部屋では、男性と女性が小さなテーブルをはさんで何か話をしていた。どれも走る電車の窓から、ほんの一瞬見かけた光景。
滅多に行くこともないビジネス街に行けば、見上げるようなビルが立っていた。スーツ姿で短い髪のビジネスマンが高級そうなダレスバッグを携えて早足で行き来し、タイトスカートのいいケツした女がヒールをコツコツ響かせて道路を歩いていた。
夕暮れ時、鶯谷の陸橋の上から、下を走っていく常磐線を見ていた。ラブホテルの看板に照らされた線路の上を、電車が轟音を立てて走り抜けていく。たくさんの人を乗せながら。
俺は何者なんだろう?って、思っていた。居場所もあるようでどこにもなく、人生こじらせて。何者なのかというより、本当に俺が生きているのかさえ分からなかった。
この目の前に見える雑な景色さえ、自分の目で見ている気がしなかった。都会に見える夜空の星がどれだけ綺麗だろうと、俺は綺麗だねって言える相手はない。たとえ言えたとしても、きっとそれを伝えられなかった昔の誰かを思い出す。あいつにも見せてやりたかったって、心が締め付けられそうになりながら。
セックスだけはちんぽ擦り切れて血が出るほどやってるけど、まともな恋愛もできやしない。派手なオンナは周りに覚えきれないほどいるけれど、俺の本名ってアキラじゃないんだってことすら誰も知らない。俺がどうやってここに来たのか、知っているようで誰も知らない。もちろん周りの多くの女たちと同じように、言う価値もなく、言いたくもない過去をすり抜けてきたわけだけど。
腹の中に黒いものを抱えたまま、俺は派手なオンナたちと仕事をし、笑顔をひねり出していた。
俺はプロなんかじゃなかった。ただのガキでしかなかった。
1994年の夏は、俺はミナと過ごした。4歳年の違う、ミナという、子供のような顔をして人生こじらせたオンナと。中学しか出ていないまま、家出をして東京の谷間に居着いた福岡生まれの美しい女。
東京で迷子になった俺は、ミナという女とのセックスに溺れていく。同じように東京で迷子になっていくはずのミナという女と。
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