見出し画像

表現教育家・岩橋由莉の働くということ

「働くとはなにか」について文章を書こうと考え始めた時、今まで所属を持たずに表現教育家としてフリーで働いてきた経験でしかものが言えないなということに気づきました。
なのでまずは「わたしにとって働くとはどんな意味を持っていたのか」をふりかえってみようと思います。

わたしは小さい頃から身体が弱く、あまり外で遊べない子どもでした。その代わり親が与えてくれたのは本でした。
動けない代わりに、むさぼるようにいろんなジャンルを読み漁りました。学校の図書館で小説のコーナーを端から順に借りていったほどです。そこで私の基本的なものの考え方や正義感などが育まれたのだと思います。
思春期に不思議に思っていたのは、女性の主人公は結婚してハッピーエンドとなる物語が多いけれど、男性の場合は結婚で終わりとはならないことでした。後半の方になると、女性が型にハマらず自由に思ったことを実行していくハードボイルドを読むのが大好きでした。
そのせいなのか、
私にしかできないことを思いきりやってみたいと強く思っていました。
自分は会社勤めではなく、職人のように定年なくずっと働きたいといつしか思うようになっていました。

大学3年生の時に授業でイギリスのドラマティーチャーであるドロシー・ヒースコートのドラマワークの記録フィルムを見た時に衝撃が走りました。そして、日本でのドラマティーチャー「表現教育家」になると決めました。
今まで自分が受けてきた日本の教育は、何かおかしいと根底で怒りのようなものもありました。決められた枠に適応するよう当たり障りのない表現を要求されている気がして教育ってこんなものではないだろう、とずっと思っていました。衝撃を受けた映像の中の子どもたちは、「セリフを覚えるのではなく、その場で思ったことを言えるのが楽しい!」と口々に言っていました。そんな場を作ることがたまらなく魅力的に思えたのです。

それを生業にすると衝動的に決めたものの、その頃の日本には、表現教育家という職業はありませんでしたし(今も正式にあるかと問われるとわかりません)、ワークショップという言葉すらあまり浸透しておらず、演出家や俳優、大学の先生が本業のかたわら行うもの、という位置付けしかされていなかったように思います。

先人が誰もいない中、表現教育家として働くとは、何をすればいいのか、どんな考え方を持てばよいのか全くわからない中からのスタートでした。

まずは生涯の仕事にする、と決めたので、年齢によって習得すべきものが違うだろうと考えました。
20代のうちは「経験すること」に絞りました。
対価としてのお金のことはノーギャラでない限り、ほとんど考えないと決め、その代わりにやったことのない仕事、無理だと思えるものでも一旦引き受けてやってみると決めました。今考えてみると相当無茶な考え方です。けれども、周りの大人たちが変てこな若者が何か変なおもしろいことをしようとしているから応援してやろうと、仕事を発注してくださいました。
また社会的にも凄惨な少年犯罪が増え、子どもが自由に表現する場が足りないのではないか、という世論が高まっていたこともあり、子どものための表現活動の場が全国的にとても増えたことも追い風になりました。
複数の児童館の表現クラス、幼稚園教諭、保育士専門学校の表現の講師、大学での「表現教育」に関する非常勤講師、児童劇団の地方巡回公演とセットになったワークショップのファシリテーター、テレビの子役養成の仕事、地方の市民ミュージカルの仕事、全国の小中学校での表現の特別授業、など単発の仕事やアシスタント業を入れると休みがほとんどないくらい仕事の機会がどんどん増えていきました。

20代は、学ばないことの強さとその場での対応力で、働く実感を持った時代だったと思います。
ワークショップが世の中に知られていないことやファシリテーターとしてのキャリアがないからこそ、自由な発想で思い切りできる強みがありました。
一方、学ばずに行う現場はいつも賭けのような場でした。
うまくいく時には、信じられないくらい互いにとって面白いものになり、かと思うと、児童館の「表現」のクラスでは「つまらない」と子どもたちに途中で帰られたことも1度や2度ではありません。
とにかく思いついたことを片っ端から行い、試す日々でした。失敗という概念はなく、何がいけなかったのかを検証して全てが自分独自のワークショップ成立へのプロセスとしか考えませんでした。
そのうち、余裕ができると海外のワークショップの文献を読んだり、他の人のワークショップを受けて、自分のやっていることが他者と全く違うのか、同じなのかと比較したり答え合わせのような確認もしていました。

無題293_20220830151019
悩みながら働いていた20代当時の写真

30代の初めには、ワークショップをなぜ行うのか、問い直す出来事がありました。それまでワークショップとは自己実現、なりたい自分になるためのレッスンだと思っていたのですが、そう強く思い、特異な仕事を積み上げてきた結果、私自身が無理をしすぎて身体を壊したのです。
子どもたちや学生に向けて自己実現、成長を掲げるだけでは何かが違うと感じていましたが、何が違うのかがわからず乖離した状態で働いていたことにも負荷がかかりました。
しばらく和歌山の実家に戻っていた時、そのままぶらぶらしているのも居づらいので、県庁や市役所に自分の経歴を持って話に行きました。ほとんどのところで相手にされませんでしたが、福祉課だけが、元気な高齢者に何かやってみないか、と話をいただきました。そこで和歌山の山間部に住む独居老人の方を対象にしたワークショップを複数回頼まれたのです。

そこでのワークショップの経験で私のこれまでの価値観が全く変わってしまいました。
それまでの対象は子どもや学生が主だったので、対象者は年下でした。舞台経験もあまりない子どもたちに何かを教える時には、一番ものを知っているのは、私でした。ところが高齢者となった途端に、私の倍以上も人生経験を積んできた方達を相手にすることになったのです。高齢者の方たちは無理だと思えば、すぐ活動をやめてお茶を飲みながら話を始めます。
私が知ってることや経験したことなどはその方達に比べると、拭けば飛ぶようなものでまったく太刀打ちできませんでした。仕方がないので、まずはこの人たちが何をしてきて、どんなことを大切に思っているのかを聞くことにしました。それしかできなかったからです。
そうすると、みんなの表情が変わりました。わたしがただ聞いているだけなのに、みんなが充実感を持って帰っていくのです。特別に表現してもらう場を作らなくても、その方達がただ話したいことを話すだけで、とてもキラキラしていたのです。そしてそれはとても豊かでした。
例えば、今まで見た一番綺麗な景色は?と聞いた質問に「戦争中、友達とお花を積んでいたら戦闘機がやってきた。友達は撃たれた。逃げる途中転んで地面に横たわった時、機関銃に打たれた花が両側でパッと散った。それが日の光にあたって夢のように綺麗だった」という話をなんでもなく話すのです。そのあまりのことに衝撃を受けてると、「あんたには想像できんことやね」とひとこと返してくれました。

いつのまにか高齢者の方を対象にした仕事がどんどん多くなり、いろんな市町村で行わせてもらえるようになりました。

あいかわらず何をすればいいかはわからないままでしたが、みなさんには一様にいろんなことをくぐり抜けてきた包容力とそれをのりきるユーモアセンスがありました。よし!こうなったらその包容力に甘えさせてもらおうと、「死ぬまでにやってみたいこと」や「自分の理想のお葬式」のシーンを短い劇で作ってもらったり、和歌山県のあちこちから集まった高齢者のみなさんと50人くらいで「子どもの頃に帰ろう!」と小麦粉粘土をこねて真っ白になりながら、好きなものを制作してもらいその品評会をするなど、とにかく、笑い合う、遊べる関係作りに挑戦しました。

30代はそんな思いもよらない現場がどんどん増えていく中で、私にしかできない仕事とは、コンテンツ(何をするか)ではなく、どんな場を作るかに価値を置くようになっていました。
その中では、むしろ誰でもできるようなこと、日常のやりとりの中で、信頼関係を結んでいくことの大切さや、本人は当たり前に思っていても、その人にしかない美しい瞬間や経験をこちらが見つけて言葉にしていく、私の場を通じてその人自身を再認識してもらう、そんな働き方に変わっていったのでした。そしてその価値観は今でも変わっていません。

つづく。(次回は「趣味と仕事のちがい」について書いてみようと思います)


「はたらくことのリレーエッセイ」全記事はこちら↓


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?