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Lプロ合宿インタビューあとがき:くじらの経験
こんにちは、Lプロ7期生で研究所新人スタッフの向坂くじらといいます。今回のLプロ合宿インタビューのインタビュアー・書き起こし・編集をすべてやらせていただきました。これは、1ヶ月に渡ってインタビュー記事をつくるという経験に寄せた、ごく個人的でちいさなあとがきです。
わたしがLプロ7期生+講師のゆりさんの5名にインタビューをし、その録音をひとり淡々と書き起こし、これまたひとり淡々と5本の記事を編集しているのを見て、7期生の誰かが「休んだらこんなたいへんな目にあうのか……」とつぶやいていた。そのあとに「休まないでおこう……」とつづいたのもわたしは聞きのがさなかった。
そう、じつはこのインタビューは、わたしが初回の合宿を休んだために課された課題だったのだ。全員に「合宿はいかがでしたか?」とたずねておきながら、当のわたしはその場にはいなかった。
話しことばがとても好きだ。書きことばももちろん好きだけど、ひとが話すことばに対して執着がある。
聞くのも好きだし、書き起こすのも好き。書きことばにはない反復や婉曲、主述のねじれ、淀み、のようなものをあふれさせながら、それでもひとつずつ語が選択されて並べられていくさまは、スリリングで、きれいだ。
なんか、微力ながら、その人が抱えている怒りとか悲しみとかを、ちょっとでも解消…………までは行くかわからないけど……スッキリする気持ちになってもらえるんだ、っていうことに、やりがいみたいなものを感じて。(うららさんインタビューより)
書き起こしたものを削って記事にするのは、好きなものを減らしていく作業でもあってすこし痛い。けれど、茫漠とした一万字から話者が言おうとしていそうな四千字を彫刻していく感じは、きらいじゃない。
話すのはすこしきらい。相槌を打つのも好きじゃない。
書き起こしの過程で、わたしの相槌はほとんど消してしまった。それどころか質問も最低限まで減らしている。できることなら話者がひとりで話しているかのような仕上がりにしたい。しかし当然録音のなかのわたしはどんどん質問をし、どんどん文脈の運びに一枚噛んでくるので、やむなくわたしにもしゃべらせることになる。
これは、自分の声やことばや存在がきらいだからとかいうことではなく、自分がいることで話者のことばの純度を下げているように思えてならないからだ。わたしの語彙を押しつけてしまうのも怖いし、知らず知らずのうちにわたしが納得のいきやすいほうへ誘導してしまうのも怖い。
わたしはこんなに語りことばが好きなのに、わたしの存在がいちばんその邪魔をしているような気がする。わたしは透明になりたい。いなくなりたいのだ。
羽地さんにとってはあまりに自然だから言葉として出てきようがないこと。それが、外の人と触れることではじめて言葉になる、言語ができる。それが私にとってはおもしろいことなんだよね。
−「おもしろい」って、ゆりさんにとってはどういう心の動きなんでしょう。
ゆり:
「おもしろいって思う」って、たぶん自分のなかの扉をあけることなんだと思うのね。そういうことをおもしろいと思っている自分の扉をあけること。(岩橋由莉さんインタビューより)
ところで、なぜインタビューが合宿を休んだ代わりの課題になるかといえば、これが「プレイバック・シアターのコンダクター養成」の講座であって、「インタビュイーから話を聞き出す」という技術がそのままコンダクターの技術になるからだ。
こんなにいなくなりたいのに、わたしはコンダクターをめざしているのだった。そうだった。コンダクターは相槌を消せないし、なにより(たぶん)その場にいつづけなければならない。
だいじょうぶだろうか。
課題の意図はもうひとつあると聞いている。合宿でなにをやったかを話してもらうことで、合宿に出られなかった分の経験や学習を多少は補完できるだろうというのである。
たしかに、同じ場所で起きたことを5人バラバラに聞いていくと、なんとなくわたしのなかに合宿で起きたことの枠組みができた。とにかく始終プレイバックをやったこと。「共感」の違いを考えたこと。みんなで食卓を囲んでご飯をたくさん食べたこと。夜遅くまで記録をつけたこと。全員がくりかえし語り、くりかえし演じ、くりかえし聞き、くりかえし観たこと。
でも、聞けば聞くほど、深まったのは理解ではなく、「わたしはそこにはいなかった」という実感だった。
経験について聞くとき、ことばそれ自体の内容といっしょに、たくさんのものを手渡される。ゆるんだりはりつめたりする視線や、うなずき、思い出し笑い、それから、次になにを発語するか決めあぐねているときの、みずうみのような静寂。
てっぺんに行くのに、わたしは特に表現をすること、役者をやりたいと思ってたからこそ、そっち方面からなにかを学ぼうとしてたのかもしれないけど、山はね、どの道からでもいけるじゃないですか。
−じゃあ、アクターとか表現者としてのスタートと、コンダクター、提供する側っていうスタートは、同じところに行き着くと感じているっていうことですか?
ゆき:
そうですね。上に、プレイバック・シアターっていうものがあって、なのでそれを……なんていうんだろうな……(ゆきさんインタビューより)
どきどきしながらそういうものを受けとっていると、語られなかったものの大きさが、なんとなくわかってくる。語られたことをもらうのと同時に、その奥に大きな余白があるということそのものまでもらう。
そして、わたしはほんのすこししか聞けていない、と思う。たった3日間のことを、1ヶ月かけて5人に1万字ずつ聞いたのに、わたしはその3日間を経験したことにはまったくならなかった。
それが、わたしにとっては、ものすごくおもしろかった。
話を聞かせてもらいながら、「ああ、わたしもその場にいて経験したかった!」「わたしもそこで同じ時間を過ごしたかった!」と何度も強く思ったけれど、それと同じくらい、「ああ、この話をなにも知らずにこの人の経験として聞けてよかったな」と思うこともたくさんあった。
感動しましたね。見ていて。変な感動ですけどね。でも、隣にいるテラーも同じように思っているだろうと言うのはちょっと伝わって。どういう風に終わるのかなあ、役者に任せるしかない、と思っていたら、テラーズアクターは最後に「まあいいか」と言ったんです。どうでもいい「まあいいか」じゃない。そこで切り替えて次に行く感じの「まあいいか」、というところで終わる。(むらっちさんインタビューより)
けっきょく、ひどく当たりまえの結論に至ってしまう。
どれだけ経験を共有しようとしても、いなかったものがいたことにはならない。
わたしは合宿にいけなかったのがとてもざんねんだし、話を聞くという経験ができて、とてもおもしろかった。
では、逆も同様ではないか。そうかんたんに、いたものがいなかったことにもならないのではないか。
インタビュアーとしてのわたしはどうしてもいなくなりたかったけれど、はなからそんなことは無理だったとしたら。語りことばのことを、相手ひとりのなかから出てくるものだと勝手に思いこんでいたけれど、それが語りはじめられた時点で、すでにわたしはそこにどうしようもなく干渉してしまっているとしたら?
−おぐっちゃんにとって、成長とはどういうことですか?
自分がこれまで思ってきたことを「やっぱり違うのかな」と思うとか、これまで気づいていても変えられなかった、捨てられなかったものが、なくなったり変わったりしたと感じられる、みたいな。ああまた同じことを繰り返してる、と気づいていても、なかなか変えられないものもあるし。(おぐっちゃんインタビューより)
では、コンダクターとしてのわたしは?
……と、いうところで、あしたからLプロの第2回がはじまる。ようやく「いる」の側へ向かうことが、怖くもあり、たのしみでもある。
Lプロ7期生のみなさま、お話を書かせてくださってほんとうにありがとうございました。これからよろしくおねがいします!
(文章:Lプロ7期生/研究所スタッフ 向坂)
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