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《なにか》めいた練習③ 〜墓参-風景と、或いはその影の模様-〜

拝啓、曽祖父さま、曽祖母さま。

 コロナと雨と猛暑、考えなければならないことが山積みな梅雨明けの候、お二人はいかがお過ごしでしょうか。こちらは、みんな簡単なことに一喜一憂しながら、それでもそれぞれらしい生き方で、元気にやっているつもりです。そんな姿も見ていてくれるのでしょうか。

 先日、久しぶりにお参りに行きました。ずっと行けていなくてごめんなさい。忘れていたわけでも、面倒だったわけでもなくて、でも父の夢にわざわざ訪ねて来てくれなければ、そんなきっかけでもなければ思いとかそういうものの存在を信頼し過ぎてしまうボクらは、その夢を共有してもらった次の日に家族で出かけました。そのくらい単純で、たまには信じてみるボクたちを、優しく思ってくれていればいいな、と思います。お墓の汚れ具合からも、ボクの不器用加減からも、あまり来れていなかったことを実感しました。ボクの周りは、もちろん二人を含めて長寿な人間が多くて、曲がることなく縦に遡ったとき、ボクの思い出にいる人たちはまだあなたたちくらいです。それは、きっとすごいことなのだろうな、と思います。

 手を合わせて、景色を見て、二人の家を訪ねて、色々なことを思い出しながら、自分が覚えていたはずのことが少しずつ霞んで消えている実感がありました。やはりボクも少しずつ大人になっているみたいです。あれだけ優しい眼差しでボクのことを見てくれていた二人のことを、絶対に忘れたくないのに、居間での風景も、お雑煮の味も、電話越しの声も、少しずつ信じきれなくなっています。でも、悲しくなるのは違うんだろうな。もちろんそれは、ボクは祖父や父ほど”育てられた”訳じゃない、それは曽祖父母と曽孫ならあたりまえの距離で、彼らほどの記憶ではないということもあるけれど、曽孫のぼくへの感情を、幼いながらになんとなく感じていた、その感覚は残っていたりして、そんな距離。

 ただ、あの頃綺麗に整えられていた庭や畑が、自然に戻っていっているのを見ると、さまざまに思いを巡らせてしまいます。この庭で、来るたび父とキャッチボールをしていたし、木に張られた蜘蛛の巣のその大きな蜘蛛に葉を投げたり、曽祖父の作ってくれた八手の実の銃を飛ばしたり、用水路を流れる蛇を見つけたり、昆虫たちを捕まえたり……まだまだ覚えてますよ、ちゃんと。物置部屋のような、きっと過去には応接室だかなんだかだったであろう部屋には、たくさんの賞状やトロフィー、祖父の若い頃の写真が置かれていて、今は記念館、なんて言い方をしていますが、本当にその通りの古ぼけた部屋。幼いボクには、それがどんな意味なのかがあまり理解できていなかったかもしれません。

 大人になりました、だいぶ。大人になって、二人の目をもっと知りたくなりました。ボクが大人になって、気付けるようになってよかったな、と思うのはこういうところです。幼い頃には思いもしなかった。あなたたちの父母の目を、祖父母の目を、個人の目を、ボクは、聞いておけばよかった。あなたたちの略歴も、剰え親戚関係もうまく知らずにきてしまいました。まあ、当然っちゃ当然のことですし、なんら引目、と思っているわけでもないのですが、ただ、今になって、例えば祖父の勇姿を見ているとき、二人にはどう写っていたのかな、と、ふと思うのです。

 ……なんて、お墓参りの話を使って、つまりは曽祖父母であるあなたたち二人を使って、また自分語りをしています。相変わらず、自己表現ばかりが得意なくせに、勇気も気力も失って。顔向けできるのか、と言われれば、微妙な苦笑い。

 今年一年は、今のところたくさんのかすり傷で済んでいます。ボクは別に、スピリチュアルな考え方をする方でもないんだけれど、あまりにギリギリかすり傷、みたいな話が多いので、なんかよくわからないものに守られてるとかもないでしょうし、きっと二人も見守ってくれているのかな、と思うようになりました。これからもボクらなりに頑張って生きていくので、どうか引き続き見守っていてください。

 いよいよ暑さも強まる時期ではありますが、どうか、安らかに。

敬具

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