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ギャル文化と活気と賑わいについて、渋谷の中心地から語ろう #LOOK LOCAL SHIBUYA 渋谷中央ブロック前編

渋谷といえば、スクランブル交差点。そうイメージする人も多いけれど、それだけではない。原宿・表参道・代官山・恵比寿・広尾・代々木・千駄ヶ谷・上原・富ヶ谷・笹塚・幡ヶ谷・初台・本町、これぜんぶが渋谷区なんです。『#LOOK LOCAL SHIBUYA』は、まちに深く関わり、まちの変化をつくろうとしているローカルヒーローに話を聞いて、まちの素顔に迫る連載です。
 
今回は渋谷駅周辺で生活し、事業を営む皆さんに集まっていただきました。渋谷の再開発を進める担当者からギャル文化の立役者まで、各々の立場で語る渋谷の過去と未来の話。渋谷駅周辺と一口に言っても、地域によって豊かな個性がありました。

宮益坂は、普通の住宅街だった

渋谷区観光協会 金山淳吾(以下金山):『#LOOK LOCAL SHIBUYA』は住民として暮らして、まちづくりをしてきた皆さんの視点から、まちの魅力を棚卸しする企画です。外から眺めているだけでは見えない魅力や課題をディスカッションして、まちの引力に還元していきたい。今回は、皆さんと渋谷駅周辺の「渋谷中央ブロック編」を話したくて集まっていただきました。
 
渋谷中央ブロックで注目されているのは、旧大山街道(※)です。歴史ある街道で、渋谷の目抜き通りになっています。旧大山街道はどのように発展、変化してきたのか? 今後どうなるとさらに面白い渋谷の中心地になるのか? 皆さんと話したいです。
 
※旧大山街道:江戸時代に神奈川県伊勢原市にある霊山・大山への参詣「大山詣り」で使われていた道。渋谷中央ブロックでは道玄坂・宮益坂が大山街道にあたり、大山街道の最初の茶屋街は宮益坂にできたと言われている。

右:渋谷区観光協会 金山淳吾
1978年生まれ。電通、OORONG-SHA/ap bankを経てクリエイティブアトリエTNZQ設立。2016年から一般財団法人渋谷区観光協会代表理事として渋谷区の観光戦略をプランニングしている。

渋谷区観光協会 小池ひろよ(以下小池):私は、この仕事に就いてから初めて旧大山街道を知りました。江戸時代にそんな道があったと知ったけれど、今は道玄坂・宮益坂という名前が浸透しています。まちに関わる皆さんは、旧大山街道についてどう思っていますか?
 
三丸興産株式会社代表取締役 吉岡久仁夫さん(以下吉岡):僕は誰かが旧大山街道と言い出してから、認識しました。今は、多くの人が宮益坂・道玄坂と呼びますね。

三丸興産株式会社代表取締役 吉岡久仁夫さん
渋谷区宇田川町出身。渋谷まちづくり研究会主催

渋谷道玄坂青年会 大西陽介さん(以下大西):僕も、大山街道という名前は歩道を改善するプロジェクト(※)が始まってから認識しました。昔から街道を意識していたわけではないです。
 
金山:大山街道という単語は、まちの再開発のための便宜上の呼び名として使われている印象もありますね。
 
※大山街道の歩道改善プロジェクト:渋谷区が発表した「宮益坂における歩行者中心の道路空間実現に向けた取り組み」。路上駐車の常態化などを解消して、歩行者空間の拡大を目指している。
 
渋谷宮益商店街振興組合 副理事長 髙木保治さん(以下髙木):僕は、生まれてから56年間を宮益で過ごしてきました。この歴史の中で話をさせていただくと、旧大山街道で繋がってはいるものの、渋谷駅を挟んで西と東つまり道玄坂と宮益坂は大きく異なった歴史があります。
 
センター街や吉岡さんがやられている109があるように、西側(道玄坂側)は元から商業が発達していました。一方で、宮益坂は目抜き通りから一本裏に入ると普通の住宅街でした。一軒家がずらりと並んでいて、僕が知る限りバブルの前までは八百屋さんもありました。
 
金山:髙木さんの小さな頃は、宮益坂は全く違う風景だったと。
 
髙木:そうですね。道玄坂にオフィスビルが建ち始めた時期に、宮益坂はまだ住宅街だった。その名残かもしれませんが、今も神宮前五丁目あたりは一軒家のある住宅街が広がっています。渋谷駅を挟んで、東と西の大きな違いです。
 
金山:吉岡さんが子どもの頃の宮益坂のイメージは?
 
吉岡:僕は、東側にはあまり行かなかったな。子どもの頃の東側の印象は、今のビックカメラのあたりにあった蛇屋ですね。小学生の頃は、宮益坂に行くガードをくぐると蛇を売っている店があったんです。今でも、蛇の絵の看板を覚えています。
 
髙木:そうそう! 蛇屋がありましたね。今の宮益からは想像がつかないと思いますが、吉岡さんが「東側には来なかった」と言う通り……
 
吉岡:東側は、蛇屋が怖かったから(笑)。

髙木:当時の宮益は住宅街だったので、それほど魅力的な商業施設は無かったんです。唯一あったのは、東急文化会館(※)です。
 
吉岡:そうだ、映画は観にきていたなあ。
 
髙木: 30年前までは「宮益坂」という名前が知られていませんでした。うちは商売をしていて、「道玄坂の反対側の坂道に来てください」と言っていたのが、今では「宮益坂です」で伝わる。これは嬉しいですね。
 
※東急文化会館:1956年に現在の渋谷ヒカリエの場所に竣工した複合商業施設。書店・映画館・プラネタリウム等が入っていた。2003年閉業。
 
一般社団法人渋谷駅前エリアマネジメント井上琢磨さん(以下井上):僕も、東側は東急文化会館のプラネタリウムのイメージが強いです。学生時代にストリートカルチャーが流行っていて、よく明治通りや公園通りに買い物に行きました。宮益坂は、表参道に行く時に歩く道でしたね。

一般社団法人渋谷駅前エリアマネジメント 井上琢磨さん
1975年生まれ。1998年に東京急行電鉄株式会社(現東急株式会社)へ入社。2020年から一般社団法人渋谷駅前エリアマネジメント事務局長として渋谷区など官民連携でまちづくりに従事

金山:昭和3年の古地図のコピーを見せてもらったのですが、地図に生搾り牛乳屋があって驚きました。今の道玄坂や公園通り、井の頭通りは牧場があって牛を飼っていたそうです。
 
大西:昔の渋谷は、お茶畑もあったと言いますよね。「渋谷茶」として知られていたと。
 
小池:ちょうど渋谷茶のプロジェクトが立ち上がっています。松濤(渋谷区の地名)に少しだけ残っていた渋谷茶の苗木を、静岡に移して収穫する企画です。2024年には、渋谷茶がまちの新しいお土産や観光資源になっているかもしれません。

なぜ、宮益坂は女性が一番行きたいまちになったのか?

金山:先日、渋谷に関する面白い調査結果(※一般社団法人渋谷再開発協会調べ)を見ました。今の渋谷で、女性が一番行きたい場所は宮益坂だと言うんです。僕の印象では、1960〜80年代にシブヤ西武(現西武渋谷店・1968年開業)、渋谷PARCO(1973年開業)、109(1986年開業)が相次いでオープンして、西側エリアが注目されていった。一方で、宮益坂は気がついたら面白いお店が増えていた。宮益坂はどうやって「渋谷で女性が一番行きたい場所」になったのか?
 
髙木:きっかけはバブル経済だったと思います。バブルを大きな転換期に、一軒家が大きなビルに変わっていきました。
 
僕の感覚でも、「渋谷で女性が一番行きたいのは宮益坂」という結果には納得する部分があります。うち(きく屋宝石店)のお客様は高齢の方や女性が多いのですが、「渋谷には行きたくない」と言われることがあります。若い方が多いまちなので、足を踏み入れづらい方がいるのは理解できるんですね。それで、「青山に向かう宮益坂にある店舗なので、来ていただけませんか。渋谷でも”大人なまち”のほうです」と伝えると来てくださる。道玄坂と違って、宮益坂は落ち着いたイメージがあると思います。
 
金山:宮益坂は、青山の経済圏に入っていると。
 
髙木:そうですね。どちらかというと、宮益坂の店舗は青山にネットワークがあります。神宮外苑から国立競技場周辺を歩き、ショッピングをしながら宮益坂まで歩いて、食事して渋谷駅から帰るという過ごし方があると思います。
 
大西:髙木さんの話、僕もわかります。僕が子どもだった1980〜90年代の宮益坂は、とても落ち着いた大人のまちの印象があります。

渋谷道玄坂青年会 大西陽介さん
大学卒業後、広告代理店に10年在職し、マス媒体やデジタルマーケティングなどの業務に従事。 2017年より始まった「渋谷盆踊り」の企画サブリーダーをはじめ、渋谷の各イベントの地域担当やまちづくり施策の行政協議の地域メンバーを務める。学生時代よりDJとして活動した経験を生かし、地域へのナイトタイムエコノミーの理解促進と活性化にも取り組んでいる。

道玄坂が東洋一を目指した時代があった

金山:一方で、道玄坂が今の景観になったのは1960〜70年代ぐらいです。変わっていく渋谷のまちを、吉岡さんはどう見ていましたか?
 
吉岡:歩道にはアーケードがあって、道玄坂は典型的なアーケード商店街でした。もともと109より先に緑屋(百貨店)があって。今の渋谷プライム館ですね。その後、隣に渋谷センタービルが建ちました。1960〜1970年代のことで、この頃から今の渋谷の景色に変わっていったと思います。

大西:父から聞いた話ですが、平屋の個人商店がビルになったタイミングで徐々に土地が歯抜けになって。1960〜70年代に、109から道玄坂、文化村通り、道玄坂小路に囲まれた三角地帯で「東洋一の建物」を作る機運があったそうです。今もその名残があって、外から渋谷センタービルと渋谷プライムを見るとバルコニーの位置が揃っているのがわかります。開発に反対する方たちもいて実現しなかったそうですが、現在も東洋一の建物を作ろうと試みた形跡が面白いです。
 
金山:アーケード商店街の名残がある中に、未来感のあるビルが建っていく。どんな気持ちで見ていたのでしょうか? 
 
吉岡:当時は学生でしたが、まちのみんなで発展していく時代なのだと感じていました。今は、未来を想像しようとしても世界が違いすぎてわからないですね。
 
金山:高層ビルが建つと、ストリートの気配が消えてカルチャーが消えるという意見を聞きます。一方で、まちにキレイなビルが建つと便利で誇らしくもある。相反する気持ちが同居する人が多いと思います。
個人的には、高層ビルがドンッと建ってグローバル企業が入ってくると、まちに資本主義の成功を象徴する雰囲気が漂う。「1960〜70年代のアーケード商店街の景色に戻ろう」とは思えないほどのインパクトはありますね。

イメージ写真
View of Empire State Building from Rockefeller Center New York City.dllu.2021

活気があるまちをベースに、賑わいが生まれた

小池:当時の渋谷の成長期を言い換えると、「活気があるまち」だと思います。今は活気ではなく「賑わいがある」と言う。渋谷を考える時に、活気と賑わいの微妙な違いはヒントになりそうです。
 
吉岡:たしかに、賑わいって誰かが言い出した言葉ですね。まちで何かに取り組んだ結果として、「これが賑わいですよ」と言いはじめた。一方で、高度成長期は活気という言葉が合います。例えば、東京タワーができたとき(1958年竣工)の社会状況は「活気があった」と表現できます。賑わいとは、活気の後に起きる盛況な様子を表現した後付けかもしれない。
 
金山:渋谷で言うと、東急文化会館ができて東急本店・シブヤ西武・渋谷PARCO・109がオープンしていく。このあたりは「活気」のイメージがあります。その先は前例をコピーしていったイメージがあるから、活気と言われると違和感があるのかもしれない。
 
小池:活気を伴ってできたまちがあって、そのまちをベースに賑わいを作っていったと。
 
金山:おそらく、渋谷のまちで活気感より賑わい感が出てきたのは1970年代ぐらいだと思います。それは、渋谷が「若者のまち」と言われるようになった頃とリンクしているのではないでしょうか。
 
吉岡:渋谷公園通りと愛称で呼ばれるようになった時期ですね。1973年ぐらいです。
 
金山:その後、1979年に109ができて若者カルチャーを牽引してきたわけです。そして、渋谷には女子高生が入ってきてギャルが社会現象になっていきました。皆さんは、あの頃の渋谷をどう見ていたのですか?

渋谷公園通りイメージ写真
2011-3-11 渋谷公園通り - panoramio.jpg. ココミイダ.2011

渋谷のギャル文化を振り返る

吉岡:109ができた時は、婦人服と紳士服も扱っていました。婦人服といっても幅広くて、子ども服も含んでいました。109のオープンから10年ほどは、いわゆる洋品店のビルだったんです。渋谷のギャル文化は少し先です。1991年にバブルが終わってまちが変化して、1990年代後半から女性がどんどんやってくるまちになった。この変化は、2000年代まで続いた記憶があります。
ただ、109としてはDCブランドブーム(※)には乗れていませんでした。パルコに行列ができても、109には行列がなかった。
 
金山:僕が高校生の頃は、109は聖地になっていましたよ。僕の妻は1979年生まれですが、彼女は高校生の時に109に行くのが日課だったそうです。
 
髙木:その頃の渋谷は、まちとしてギャル文化の流れにのっていったと思います。渋谷女子高等学校(現渋谷教育学園渋谷中学高等学校)が、制服をDCブランドに切り替えたのを覚えています。渋谷のドラスティックな変化でしたし、「DCブランドのまち渋谷」のイメージ定着を担った出来事だったと思います。
 
※DCブランド 1984〜1986年に起きた東京発のデザイナー・キャラクターブーム。代表的なブランドとして、コム・デ・ギャルソンやイッセイミヤケなどがある。

渋谷宮益商店街振興組合 副理事長 髙木保治さん
某百貨店勤務を経て、株式会社きく屋宝石店入社。宮益町会役員・宮益御嶽神社理事を兼任

金山:その頃の渋谷の主役は、女子高生でした。当時のまちで商売していた皆さんは、女子高生の現象をどう見ていましたか?

 髙木:宮益坂側から見れば、やや冷ややかな反応をしていたと思います。宮益坂には、若い方を相手に商売をする店舗も少なかった。あの頃は道玄坂と宮益坂は完全に区切られていて、文化も違っていた印象があります。

金山:吉岡さんはいかがですか? 109はまさにギャル文化、渋谷カルチャーの発信地でした。

吉岡:台風の中心は静かだと言いますが、当時の僕たちは冷静に見て判断していたと思います。なぜ女子高生が集まるのか、渋谷には何があるのか。

たしかに、109にはギャル文化を牽引するショップができました。しかし、そのショップもブームの少し前までは必死でした。お客さんが来ないから、店員たちが商品を着て写真を撮って雑誌に取り上げてもらうために出版社を回っていたんです。地道な活動を繰り返して、ブレイクしていきました。

髙木:中古レコード屋さんも多かったですね。音楽やレコードが一つの渋谷のファッションを形づくって、文化が進化したイメージです。「渋谷に行けばコレがある」という、渋谷ならではのものがありましたね。

金山:僕は中学生の時に、8万円を握りしめて初めて渋谷に来たんです。当時、渋谷のヤマハ・イケベ楽器・クロサワ楽器は日本を代表する楽器屋さんでした。金山少年は渋谷のヤマハでギターを買いたくて、お年玉を握りしめてやってきたわけです。

小池:渋谷には楽器屋さんが多かったから、エンタメ文化が花開いたのでしょうか?

金山:渋谷の音楽カルチャーは別軸でしたね。当時は渋谷系音楽が一世を風靡していて、渋谷でギターを買って、バンドを組んで、レコードショップで店員と仲良くなりたい人たちは多かったと思います。実際に、渋谷はミュージシャンもたくさんいました。渋谷の中でも、公園通りやセンター街の奥のエリアが盛り上がっていました。

スクランブル交差点・センター街イメージ
Center Gai-dusk-20071001.Joi Ito.2007

金山: 1990年代に渋谷が女子高生のまちになった一方で、まちが荒れていく様子も見ていたと思います。センター街を中心に、違法テレホンカードや露天商が横行していました。(大西)陽介くんはギャル文化の担い手と同世代ですが、当時の渋谷の印象は?
 
大西:大きなお金は持ち歩かないようにしていました。今はセンター街で寝そべっているようなマナーの悪い人がいる事をテレビが取り上げる程度ですが、僕が高校生の頃はもう少し怖いイメージはあったと思います。
 
金山:髙木さんの印象はどうですか? 宮益坂側から見るとセンター街の治安の悪化は隣町の出来事かもしれませんが。渋谷のまちとして、なぜこんな風になったのか地元の皆で話したり、対策をする議論はありましたか?
 
髙木:地元の我々からすれば、大きなインパクトはなかったです。悪い人はいたかもしれませんが、我々は普通に生活していました。外から渋谷を見た人が、怖いという印象を持っていたのではないでしょうか。
 
吉岡:そうですね。センター街がそこまで悪い印象はなかったですね。話題になる前から、安心で安全なまちだったので、何か悪いことをしたい若者も入っていけた。お坊ちゃんが少し悪びれていた程度ではないでしょうか。
 
大西:本当に怖い人は、新宿や池袋にいるイメージでしたね。
 
吉岡:メディアでは、なんでも渋谷のイメージが映りますよね。コロナ禍でも、白黒にした109が象徴のように映っていました。メディアの取り扱いによって、渋谷が悪いまちに見えてしまう側面はあると思います。
 
>>後編へ続く

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