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ゆたかさって、自分の意思で選ぶこと ≒ やりたいことをやること

acworksさんによる写真ACからの写真)

note公式で新しい投稿コンテストのお題「#ゆたかさって何だろう」が流れてきたのを見て、すぐに思い浮かんだのは「自分の意思で選ぶこと」だった。そして、それは「やりたいことをやること」とも言い換えられる、というか、それが評価指標になる。

私は「自分の意思で選ぶこと≒やりたいことをやること」が多ければ多いほど ゆたかだと思う。

それは、自分の人生を主体的に生きているということだから。

例えば仕事。最初から自分のライフワークに出会える人はそうそうはいない。色々な条件を掛け合わせて、とりあえず入った会社で、とりあえずタスクを与えられたとしても、それを楽しむということは自分で選べる。さらには、その枠から飛び出ることも自分から選べる。そういう人は、勉強や仕事を苦痛と感じることはなく、むしろ遊びとイコールだ。

ちなみに「とりあえず入った」というのは、厳密には自分の意思で選んでいるとは言い難い。それは「やりたいことをやること」に当てはまらないからだ。「俺はこれがライフワークだ」という人は、側から見たらワーカーホリックだとしても、本人の人生的にはゆたかだと思う(もちろん、その中でもいろいろとしんどいことはあるだろうけど)。

そして、より多くのことを自分の意思で選べている人は、時間とお金の重要性を認識して、それらをできるだけ確保している、と思う。
住みたい街で住みたい家に住む、会いたい人に会いたい時に会う、やりたいことをやりたい時にやるには、時間とお金が必要だ。何を優先するかは人それぞれだけど、選べるものの多少はリソースによって決まる。

ただ、二つ目はどちらかという付帯的なもので、やはり一つ目の「自分の人生を主体的に生きている」かが大切なのだと思う。

私は、子どもが子ども時代を子どもらしくゆたかに過ごして欲しいと思い、子どもの遊び環境づくりに携わっている。
現代の子どもたちは自分の意思で選べることがとても少ないと思う。自分の意思で選べる、その最たるものが「遊び」だ。どんな遊びをするかは自分で選べる。
そうやって遊び込むことを年齢に応じて積み重ねていくことが、自分の人生をゆたかにしていく力につながると信じている。

しかし、時代を追うごとに子どもが選べる選択肢(遊び)が少なくなっている。

子どもの遊びにおいて重要な「間」が4つある。それは「時間」「空間」「仲間」「隙間」だ。それらが子どもから損なわれ続けているのである。

時間:現代の子どもたちは放課後も習い事や学童保育、部活動などで過ごす子が多く、自分の自由に使える時間は少なく、また細切れになっている。

空間:都市化に伴い、街の中から子どもの知的好奇心を刺激するような場所は次々と整備されてなくなっていった。地方でも安心安全の観点から子どもだけで行かないように指導されている。一人当たりの都市公園面積は年々増加しているが、子どもが子どもらしく遊べるような公園は一握り。

仲間:各々が習い事をしている現代では、長時間一緒に遊ぶということが難しくなっている。大人以上にアポどりが大変なのである。

隙間:子どもが子どもらしく遊びだすと、大体が大人が決めたルールをはみ出してくる。昭和年代は街の中に大人の目が届かない隙間が残っていて、そこで子どもらしく遊んでいたのだが、今は大人の目が行き届いているが故に難しい。

公園で子どもが集まって携帯ゲームやカードゲームばかりしていると話題になるが、あれは短い時間でも一緒に遊べて、また続きができるし、大人に注意されることもないという彼らなりの遊びの処世術なのだが、今やその処世術さえも「ゲームばっかりやって、もっと体を動かせ」と言われてしまう。

すでに、ビジネスの世界では「本気で遊び尽くす人」「遊びのように仕事ができる人」が生き残ると言われている。
生き残ることがゆたかなことかはわからないけど、遊び=やりたいこととをやること≒自分の意思で選んでいること、だから、ゆたかさを持った人が生き残るとは言えそうだ。

結局、遊びの話になってしまったが、子どもも大人も「遊び」を大事にすることも、ゆたかなことのように思う。上に書いた方程式から、そう導かれるもんな。

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