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吸血鬼考

こりゃまた大きく出たもんだ(笑)

「ともあれ、恐怖山脈は夏山によし、冬山によし。リュックはいらず、同伴者不要。遭難の心配なし。初心者はとにかく下駄ばきで、もっと恐いの、もっと恐いのと、無謀なねだり方をする」

「よく怪奇小説の愛好家だと称する人のなかには、もっと怖いのはないか、もっと怖いのはないかと、無闇やたらにどぎつい恐怖を要求する人があるけれども、そういう人には、気の毒だがこういう作品の味は分かるまい」

上記は『幽霊島 ー 平井呈一怪談翻訳集成』(創元推理文庫)末尾に掲載された、平井先生の文。前の〝恐怖山脈〝といふ謂はラヴクラフト『狂気の山脈にて』を引用したのかも知れず、氏の弟子たる荒俣宏編『怪奇文学大山脈』(全3巻、東京創元社)にも継がれている。
そしていずれもディスっているのは〝初心者〝。ここでいう初心者とは、学校の怪談的な、新耳袋的な、いわゆる怖い話を欲しがる痙攣的イベント中毒者を指すのだろう。

オリンピックが終わったら自民党総裁選。メディアの扱い方もどうかと思うが、イベント中毒のジャパニーズは新たなドラッグを注射してもらい、随喜の涙を流している。「学校の怪談」「新耳袋」自体に罪がなくとも、堪え性のないこの精神は、真の怪奇小説愛好者とは一線を画すものである。

『吸血鬼ドラキュラ』や『カーミラ』を初邦訳、我が国に紹介した故平井呈一氏が高く評価するのは例えばポー、例えばアーサー・マッケンやブラックウッド。そして女性なら、自分も感銘を受けたイーディス・ワートン。イーデス・ハンソンじゃなくて。

創元推理文庫のマスト本『怪奇小説傑作集』、第3巻に収録されている「あとになって」(Afterward)は珠玉の幽霊譚。アメリカの鉱山主だった夫が鉱山を売っぱらい、夫婦ともどもイギリスに転居。その金で悠々自適、片田舎に屋敷を買う。だらだら坂を上ったところにある屋敷からは美しい田園風景や森が見え、屋敷も英国庭園を備えている。
その庭園は手入れが必要で、妻は庭師を雇う。ある日、夫に客があり、台所で用事をしていた妻がちょっと目を離した隙に夫はいなくなる。客ともども、煙のように消えてしまう。
ちょうど手入れに来ていた庭師に聞いても知らないというし、しかし庭園を通らずしてどこかへ行かれるはずはない。夫はどこへ消えたのか。客とはいったい誰だったのか。

「あとになって」という題名が、妻の悔恨と相まり、深く心に響く逸品。

自分が生まれたちょうど100年前がお誕生日のイーディス・ワートンは、今はウォートンと表記され、映画化された『エイジ・オブ・イノセンス』で実はピューリツァー賞を獲っているそうな。今まで知らなかったが腑に落ちた。だって「あとになって」、最高ですもん。

マトモな怪奇小説は、くだんのようなあらすじでは分からない。これは演劇や文学も同様で、ドストエフスキー『罪と罰』をひとことで言うなら「貧乏学生が高利貸しの老婆を殺し、懊悩する話」。エリザベートは「自由気侭に育ったお嬢ちゃまがハプスブルク家に嫁ぎ、嫁イビリに逢う話」そして「トートという魔物に、終生ストーカーされる話」。
こう言ってしまえば何ということはない。あらすじでは味わえないその値打ちは、一文一文にこそある。芝居ならひとつひとつの動きや台詞、歌やダンスを含めたひとつひとつの場面の集積。
モダンホラーの帝王スティーヴン・キングがインタビュアーに「どうやってあんな小説を書いているのですか」と訊かれたとき、こう言った。

「一語一語」

ここが学校の怪談や新耳袋ファンとは根本的に違う点で、だからこそ平井呈一先生は彼らを〝初心者〝とディスった。やや、いまご存命なら必ず彼らをディスっているだろう。

「三伏の夏、炎暑のごくきびしいさなかには、ここのほうがだいいち涼しいし、それに、狭い台所が、ま四角な大きな構えの隅っこのほうにあるのだから、皿小鉢をはこぶのに、年経りてあちこち欠けたり、どこもかしこも擦りへった急な石の階段をのぼり下りするよりも、便利なせいもあって、われわれは日の落ちるころに、この古い塔の屋上で夕食をしたためた」

「この塔は、十六世紀のはじめ、新教徒がフランソワ一世に加担して、皇帝と教会に反旗をひるがえしたころ、カール五世皇帝がバーバリの海賊どもを撃退するために、カラブリアの西海岸一帯に建てた望楼のひとつであった。こんにちでは、あらかた見る影もない廃墟に帰して、昔のすがたをとどめているものはいくつもないけれども、そのなかでも、わたしのはいちばん大きいもののひとつである。そんなものが十年前に、どういういきさつでわたしのものになったか、また、毎年ある一定の期間を、なぜわたしがここで過ごすのか、そんなことはこの物語には、なんの関係もない」

主人公は毎年、自分のものとなったイタリア南部の塔でひと夏を過ごす。

「塔は、イタリア南部でもっとも辺鄙な土地のひとつである、彎曲した岩山の突端に立っている。小さな入江であるが、ここはポリカストロ湾の南のはしの自然の良港をなしており、この地方の言い伝えによると、ユダ・イスカリオテの生誕の地といわれている、スカレア岬のちょうど真北にあたる」

「夏の一人ぐらしのなかを、ちょくちょく訪ねてきてくれる友人は、画かき商売の男で、身は浮き雲の風まかせ、飄々乎たる一介の風来坊である。わたしたちは落日を眺めながら飲み食いをしたが、赤あかと輝いていた夕日のいろもいまはすでにさめて、むらさきいろの暮色が、東にひろがる深い入江をかかえこむようにして、南のかたへしだいに高上がりに聳えている、大きな山なみをすっぽりと包んでいる」

「夕凪どきのひとしきり暑いときで、われわれは塔の屋上の陸に面した一隅に陣どって、やがて低い山から吹いてくる夜風を待っているところであった。五彩の色もいつしか空から消え、いまは濃い灰色の暮れなずみのひとときで、台所のあいてる戸口から、黄いろいランプの灯影がひとすじ流れ、そちらは下男たちが食事の最中である」

この美しい文章は、F・マリオン=クロフォード『血こそ命なれば』。訳は平井呈一。
やがて岬の端に月がのぼり、湾の水際までだらだら下る岩場や草山を照らす。と、友人が丘の中腹にある小さな塚に目を凝らす。何かが横たわっているように見えるあれは墓だろうかと。

主人公は肯定す。友人は「ちょっと行ってみるわ」。ぶらぶら歩いて行く友人を塔の屋上から眺めていた主人公は、塚に着いた彼に、横たわっていた影が白い霧のような手を伸ばし、巻きつくのを見る。
が、主人公は慌てず騒がず。なぜならくだんの墓にまつわる実話を、塔の留守番老人や、村の司祭から直接聞いていたからだ。

F・マリオン=クロフォードでもっとも有名なのは海洋怪談『上段寝台』だろう。航海中の船舶、ある一室の上段寝台に寝た船員と化け物との死闘。
そして『血こそ命なれば』は幽霊譚じゃなく、題名どおり吸血鬼の話。本編はここからで、何事もなく戻ってきた友人に、彼は墓にまつわる逸話を語りはじめる。

ちょっぴり切なく、ものすごく恐ろしい話。これはイタリア南部の地中海に臨む、風光明媚な情景あってのことで、単に〝こわい話〝ではない。
一文一文が、物語に引き込んでゆく。

アマゾンで、「吸血鬼」と検索したらマンガばかり出てくる。ラノベとかパラノーマル・ロマンスとか。
「パラノーマル・ロマンス」とは昨今世界中の女性にウケてる「超常的恋愛小説」の事とか。

https://ddnavi.com/news/98233/a/

これはむかし一世を風靡した「ハーレクイン・ロマンス」の変種で、要は読みやすい恋愛もの。本来はガチの反キリスト、闇の帝王トート閣下たる吸血鬼すら、サブカル的に消費さるる。
いや、ラノベ・マンガが真面目な世界に進出してきたと言うべきか。

アン・ライス『夜明けのヴァンパイア』 ー インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア ー と、萩尾望都『ポーの一族』の、これは罪とも言える。奇しくも愛甲猛が

「イチローの罪は、右投げ左打ちのバッターばっかり増やしたこと」

と言っていたように。

吸血鬼は本来、恋愛などしない。生ける死人であるから、人間的な感情を持つはずがない。
そもそも性器すらなく、氏は噛んで血を啜り(犯す)、或いは自らの胸ないし腹を長い爪で切って血を飲ませる(F)のがセックスの代替行為。
そこに精神性はなく、ただ、彼らの出自と来歴が、それを担保している。ワラキアの貴族であるとか、一所懸命生きた庶民だったとか。敢えて同情するならここにこそ(微かに)共通点を認めるべきで、ラノベでオモチャにされるなんてあり得ない。

物事には「格調」といふものが必要。ドラキュラ伯爵を見よ、ミラーカ・マーステン伯爵夫人を見よ。
『血こそ命なれば』の、可哀想だがしかし物凄い女性だってそうだ。

昨今、格調とか高潔なんて言葉は死語になった。ネオリベ維新や堀江貴文、今のジミンにそれは明らかだが、これは世界的風潮ではないか。そしてその悪癖に貢献()したのは、ロリコンを正当化した、いわゆるクールジャパンだと思う。

サブカル自体は良いけれど、真面目になるべきところでもサブカル的にものを見る。みうらじゅんさんのように真面目にサブカルしてる人は俺も大好きだが、そのほとんどは冷笑系。高潔だの理想だのを嘲笑罵倒し、ネトウヨ を産む。
文学とパラノーマル・ロマンスとの、例えばここが大きな違い。

アン・ライス『夜明けのヴァンパイア』は吸血鬼の来歴という点で革新的だったし、萩尾望都もこれに触れていた。
また、『モールス』はプチ恋愛ものながら、恐怖をしっかり描いていた。

でも『トワイライト』のシリーズや、『アンダーワールド』は違う。『ヴァン・ヘルシング』はCGとマンガに徹していたからアリだし、『30デイズ・ナイト』は吸血鬼の恐ろしさをまんま表し、大あり。
◆予告編

https://youtu.be/OtU0UBnWik4

吸血鬼小説はアン・ライス以後と以前で峻別される。

「ライス以降、吸血鬼や狼男との恋愛譚は〈パラノーマル・ロマンス〉という小説界の一潮流となる。そして吸血鬼と狼男のつばぜり合いは大衆の想像力に忍びこみ、『アンダーワールド』シリーズなどのアクション映画となる。
そのすべてが結実したのが〈トワイライト・サーガ〉である。浅薄なロマンスと、戦い」

柳下毅一郎は『ヴァンパイア・カルト』なる評論 ー ナイトランド・クォータリー(アトリエサード、2015年)でそう喝破する。つまりヴァンパイアも政治もカルト化したのだ。
安倍晋三がカルトとの噂を否定どころか衒いもなく、統一教会で大演説したように。

柳下はそして、論をこう〆る。

「だがそれこそ現代のリアリティであり、今に生きる吸血鬼にとっては切実きわまりない真実なのだ」

今に生きる吸血鬼、それは心ある人の事。奇しくも異形の者が相対的に、斯くなってしまった。
だからこそ、いま言葉や文章はだいじなのだ。

https://youtu.be/ZTbY0BgIRMk

冒頭の写真は『叫び』のムンクが描いた、吸血鬼。

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