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檸檬にまつわるあれこれ

私の通うカフェマメヒコでは、冬になると柑橘のデザートがメニューに並ぶ。どれも美味しいのだが、私は特別レモンケーキが好きだ。檸檬の果汁がたっぷり混ぜ込まれたカスタードクリームと、さっぱりした生クリームの、黄色と白の綺麗な二層。爽やかな酸味が鼻に口に広がり、どっしりしているというのにいつもぺろりと平らげてしまう。

そう、檸檬の旬は蜜柑と同じく冬だ。それなのに私は、檸檬といえば蒸し暑い京都を思い出す。「ここが梶井基次郎の『檸檬』の丸善なんだよ」と夏の京都で父が言ったからだ。私が高校2年生の夏休みだった。真夏の京都は痛いくらいの日差しが照りつけ、何よりとても蒸し暑かった。

父は他の女性と暮らすために、私が小さい頃家を出ていってしまって、長いこと一緒に暮らしていなかった。それでも私や弟に普通の家族らしいことをしてやりたいという母の意地だったのだろう。数年に一度だが、家族で旅行することもあった。このときには夏の京都ならではの川床で食事をしたりしたっけ。

父の言葉から『檸檬』が有名な文学作品らしいということはわかったが、母も私も読んだことがなかった。「そんなのも知らないの」と、父は言った。教養のない奴らだと言う口ぶりに、母の横顔が曇った。父は自分が捨てたものの未熟さを認識して、自分は正しかったと思ったのだろうか。

私は、父の彼女の顔も名前も知らない。でも時たま母が滲ませる「自分には大した学がない」というコンプレックスから察するに、おそらく「彼女」は父の好きな歴史や文学の話もできる、聡明なひとなのだと思う。京都を一緒に歩いたのが彼女であれば、「檸檬の丸善」と言えば、きっと気の利いた反応を見せたのだろう。

旅行を終えた後に、私は学校の図書室で『檸檬』を読んでみた。この短い小説はすぐに読み終わったものの、この話のどこが素晴らしくて有名なのか、さっぱりわからなかった。感想すら持てなかったことを恥ずかしく思いながら、本棚に本を戻す。

『檸檬』は「得体の知れない不吉な塊」に心を押さえつけられていた主人公が、ある日果物屋で檸檬に惹きつけられる。檸檬をひとつ買って例の丸善に立ち寄り、ある行動にでる……という話だ。檸檬の存在は、主人公の居た堪れなかった気持ちを軽くしたのだと私は感じた。

いま読み返してみれば、こういった些細なものに心を奪われ救われるようなこともあるものだと、面白さが少しは理解できる。調べてみると、梶井基次郎は31歳で夭折していた。現在の私の年齢である。

父が家を出て行ったのも、彼が30歳頃のはずだ。夫として父親としては、何一つ褒められることがない人だが、父にしても「彼女」にしても、多くの葛藤を抱えていたのだろうと慮ることもできる。他人の話であれば、そんな人生もある、苦しみもあっただろうと、話を聞いて受容することもできる。父も人間としては歪なところがありながら憎めない人だと思うが、それは私からもう他人として見えているからである。恨みもない。一緒に居たかったとも思わない。詫びてほしくもない。会って話をしたいとも思わない。父や、彼女が、本当はどんなことを思っていたかなど私にはどうでも良い。私に血を分け与え、私の人生に大きな混乱をもたらした人だが、彼は私の人生にとってよそ者だ。私は不幸になりたくない。そう強く願う理由の一つは、この父がいるからだ。父が自分の選ばなかったものに想いを巡らせたとき、「自分がこうしていれば」などという彼や彼女の憐憫の材料になど、絶対になりたくない。

そんなふうに意地を張って生きているというのに、いざ自分が恋愛をすれば、満たされなかった父性を恋愛相手に求めるようなことをして、すっかり自滅してしまった。こうして自分の人生にまた父親の影がかかるのかと暗澹たる思いに苛まれる。にっちもさっちもいかない、重たい塊を胸に抱えているようだ。感染症の流行のせいで行動が制限された2020年のことだった。簡単に気晴らしにも行けない。

何の気力が湧かなくても、自分の世話は自分でしなければならない。檸檬の主人公のように、私もふらふらとスーパーに買い物に出る。ちょっと前に流行ったような曲が有線でずっとかかっている、洒落っ気もない雑多な店だ。店内を彷徨くが、自分の食べたいものもはっきりしない。梶井基次郎にとっての檸檬のように、強烈に惹かれる何かもない。

私が牛乳に手を伸ばした時、店内に米津玄師の曲が流れはじめた。すると牛乳に手を取って私を追い抜いて行った知らないおじさんが、曲にあわせて鼻歌を歌っていた。上手でもない、間の抜けたおじさんの声。小さく呆気にとられた後、私はマスクの下でこっそり笑った。なんだか妙にほっとしている。

社会が緊急事態と言われようと、私がどれだけ悲しい気分に浸っていようと、ここにはひとの生活が淡々と流れている。通りすがりのおじさんの鼻歌が、そう思わせてくれた。私の生活もちゃんとここにある。この先も同じような恋愛ばかりしてしまうのかもしれないとか、父性がどうとか、難しくて考えなくてもいいのかもしれない。まずはちゃんと自分の生活をおくっていられれば、私の人生は及第点だ。肩の力をふっと抜く。普段は買わない塊肉でも買って、料理してみようかと、少し気力が湧いてきた。

いつの間にか、私もLemonに救われていた。


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