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争いに向かない人。
ここ何十年もパチンコ屋には行っていないが、20歳くらいの頃に誘われて何度か行った。
パチンコで当たりが来ると、連続して玉がジャラジャラ出て、ドル箱というものが足元に積み上がっていく。周りの人からは、おお兄ちゃんやるな、等と言われ、羨望の対象となる。
いや自分の力でではなく単に運が良かっただけなのにと、まだしばらく玉は出続ける様子だが気恥ずかしくなり、そそくさと終わらせて友人を待つ。
周りは夢中になって台を睨み続け、玉を打ち続けている。
後日、パチンコ好きの友人に、嫌味ではなく純粋な疑問として、当たりが出たら気恥ずかしくないのか聞いてみると、全くその逆で、自分は凄い、特別な人間だ、と得意気な気持ちになるとのこと。
理解はできるが共感はできない。恐らく自分にその感覚が備わっていないのが原因だ。世の中には少なからず自分と異なる感覚を持つ人がいる、という当たり前の事実が分かった。
似た話で、争いや勝負に対する感覚について。
私は、何らかの争い事で勝ったとしても、いつも後味の悪さを感じる。理由は分からない。ただ、先述のパチンコの感覚に近いことは薄々分かっている。
一方、そうではない人がいることも認識している。恐らく一種の万能感を得るのだと思うが、自分にない感覚なので理屈で理解する外ない。
生き物としては、そちらの方が正解なのだろう。
いわゆる煽り運転も全く理解できない。煽って抜かして、何をチンタラ運転してるんやボケ、と怒鳴りつけて走り去ったところで、誰も得しないどころか命とガソリンがもったいない。
この私の感覚は、先天的なものか後天的なものか、表層的なものか深層心理に由来するのか、専門ではないのでとんと分からないが、同様の感覚を持つ人も少なからずいる筈だ。
心当たりのある人へ。
敢えて「我々」というが、我々は、争いに向かない。
争いで高揚感を得る人に勝てる筈もない。
矛盾しているが、争いとは別の場面で「勝負」するしかない。
何かを成し遂げる際には、無理して他人と争わず、自分が納得できるものをコツコツと積み上げていく。きっと、争いにかまけている人より、もっと多くのものを得る事ができる。争っていては見えない景色も見れる筈だ。
いわゆる勝者にはなれないかも知れない。しかし、本当の意味での勝ち負けは、死ぬ寸前まで分からない。なので、何も気にすることはない。
争いが下手な、不得意な人へ。
我々は、この21世紀前半の日本社会には向いていないのかも知れません。それどころか、どんな時代にも向いていないのかも知れません。
でも、争いを避けて生きていく方法はいつの時代にもある筈。
世の中、色んな道があり、意外と捨てたもんではない。なので、弱い者同士、ボチボチやって行きましょうか。
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