見出し画像

私の坂道論 | 吉村裕美

 昭和の終わりから平成初期にかけて、NHK教育テレビで放送された「たんけんぼくのまち」(1984年4月―1992年3月)のことを今もよく憶えている。同じくNHK教育テレビ「いないいないばあっ!」のワンワン役でおなじみのチョーさんが出演されていた小学3年生向け社会科番組である。「♪知らないことが おいでおいでしてる 出かけよう 口笛吹いてさ」というオープニングを思い出すと、仕事をしながら楽しそうに町を走り回るチョーさんの笑顔が浮かんでくる。小学生だった私にも自分の町に気に入っている場所があって、それは坂道だった。チョーさん並みに地図を描けるとしたら、私は記憶の中の坂道をたくさん描き込むだろう。
 私は今も、平坦な道に飽きたら坂道を上る。坂の上からは遠くまで見渡せるし、眼下に広がる景色は目新しく映る。日常の中にひょっこり別の風景が姿を見せるところも、坂道からのサプライズみたいで好きだ。坂道は日常の領域にありながら、非日常との境目がぱっくりと口を開けているように思える。日常を更新したい時は手っ取り早く坂道に上ってみてはどうだろうか。この消極的な坂道論を押し進めるために記憶の中の坂道を紹介してみたい。

 それは、学生時代に住んだ吹田市千里山(すいたしせんりやま)の坂道である。阪急電鉄梅田駅からは電車で30分、阪急千里線千里山駅を降りると、目の前に坂道が延びている。東京の渋谷のように、低いところにある駅から放射状に坂が広がっていくような地形である。だから、坂の上に住む人々は第1噴水広場から扇のように延びた坂道をそれぞれ辿って帰っていくのだ。かつては海が近く、石器時代から人々が暮らしていたという千里山は、元々の山の地形が残っており、坂道には緩急があって、坂の先はどこに続いているのか一度歩いてみないと見当がつかない。千里山の開発段階から地形の起伏に沿って作られた道路は、ゆるやかな変化を生み出し、坂道は行きと帰りで全く別の風景を見せてくれる。ひとつ角を曲がっただけで、目の前の景色とともに、遠くの景色がぱあっと広がる瞬間がある。第2噴水広場まで坂道を上ると、梅田のスカイビルがくっきり見えていた。夏になると、坂道の途中の家のベランダからは、淀川の花火が綺麗に見えた。
 千里山では、大正9年(1920年)から昭和3年(1928年)にかけて、ロンドン北郊のレッチワースをモデルに「理想的田園都市」を掲げた開発が始まった。大正10年(1921年)に、千里山駅まで電車が開通してからは一気に住宅地へと姿を変えてきた。開発直後の大正13年(1924年)に戸数約170戸ほどだった町は、昭和6年(1931年)末には世帯数464戸、人口は2000人を超えていたという。千里山には、開発の中で作られたと思われる洋風建築や和洋折衷の住宅、昭和の文化住宅風の家など、各時代の特徴をもつ建物が並んでいて、独特のモダンな雰囲気を醸し出している。それらは、緑の生垣や石垣とともに町を歩く上でのランドマークで、同じ建物はひとつとしてなかった。近道をしようと思って坂道を上って行くと、人形の家のようなかわいい建物に行き着くこともあり、物語の世界に足を踏み入れてしまった感覚になる。春には、第1噴水広場の桜が見事に咲いて、町開き当時からこの場所にあるという噴水に花びらを舞い散らせていた。
 千里山の坂道の起点は、すべて第1噴水広場にあり、この場所が扇の要にあたる。駅から第1噴水広場に向かって延びるレッチワースロードには、町開きから100年後の現在も、開発のモデルとした町の名が冠されている。コンビニや惣菜店、カフェや雑貨屋の並ぶこの付近は少しだけ賑やかだ。坂道を横へ横へと移動して突っ切ることができず、いつも坂道で隔離されているので、第1噴水広場辺りで千里山在住の友人に会えると、ちょっと嬉しくなる。私は、山の稜線付近にある第2噴水広場の近くに住んでいて、先輩は別の坂の上、後輩は坂を下ったところに住んでいた。第1噴水広場は、友だち同士で集まるときの集合場所であり、一緒に電車で帰ってきたときは「じゃあまた」と別れる場所だった。
 千里山の頂上付近にある第2噴水広場付近は、住宅地で静かだった。第2噴水広場には、今は伐採されてしまった常緑の針葉樹が立っていた。90年代後半に植樹された第1噴水広場の桜と違って、かなり大きな古木で、一年中噴水に影を落としていた。この第2噴水広場からは、稜線を上る道が1本、谷を下る道が2本あった。谷底まで下りると、竹藪と畑と少しの田んぼのある一角に行き着く。はじめて、このタイムスリップしたかのような風景のなかに迷い込んだ時には驚いたが、これが大正期以前の千里山の姿なのだった。梅田からそう遠くない千里山の開発時に目指した田園都市は、こうした自然の中に作られ、いろんな土地から集まった人たちが住まうモダンな町だったのである。当然土地の歴史はないので、しがらみもなく若い人たちが自分たちで町づくりをしていったのではなかったかと想像する。私の下宿の大家さんによると、大阪国際万博の頃の千里山には、まだタヌキが棲んでいたということで、町に残る竹藪を目にするとき、私はもういないであろうタヌキのことを思った。

 隣の駅に大きな大学がある千里山には、学生も多く住んでいた。ある春の日、留学生らしき2人組が坂の中腹の小さな階段で、自転車を持ち上げているところに行き合った。どうやら、あみだくじのように横へ横へ移動して大学方面に向かいたいようだ。しかし、この街で横に移動することは遠回りである。小さな階段の先を直進した場合、ゆるやかな坂と急坂がセットになって、もう一つの山の頂上へと続いていく。自転車で登坂するには結構な標高差だ。しかし、角度的にそれは2人のいる階段下からは見えていないようだった。ともなくして、急坂の存在に気づいた留学生は「Why!?」とつぶやいた。地図を開き平面上でみると、横に進むのが近道に見えるが、実はそうではない。自転車で隣町の大学方面に行く場合は、一度駅まで坂を全部下りきってから、阪急電車の線路沿いを進むのが時間的にも体力的にも正解なのだ。彼らにとっては、だまし絵のなかに入り込んでしまったかのような感覚だっただろう。自然な地形が生み出す高低差を目の当たりにするとき、坂道はアトラクションの中にいるかのような非日常感をそこに醸し出していた。

 千里山は、千里丘陵と呼ばれる一角にあり、標高71.8メートルの千里山配水場公園の地点が一番標高が高い。この地では、150万年ほど前に古大阪湖に海が侵入し、以後、海の侵入と後退が10回以上繰り返された結果、大阪層群という地層群ができあがった。この大阪層群は、地殻変動により隆起し始め、約20万年前に現在の千里丘陵の原形となったのだという。そして、縄文時代から人々が住んだ千里山地域には複数の湧水がある。住宅地のなかにある垂水神社(たるみじんじゃ)の社名の「垂水」とは、「崖から流れ落ちる水」を意味し、千里丘陵南端にある境内には湧水が生じる。古くから水の神として信仰され、日照りでも水は涸れず、千里丘陵内部の湧水地点に人々がムラを形成したという。こうして、あらためて地形を見ていくと、今も緑豊かな千里山は、古代の人々の目にどのように映っていたのだろうかと、ますます興味深く感じられる。

 千里山の坂道の思い出を辿り、太古の昔にも思いを馳せるなかで、私は、古代の人々も現代人も坂道の上で視界が開ける感覚は同じなのではないかと思えた。ちょっと高いところから、遠くにあるものを視界に入れて、かつ今住んでいる場所を眺める瞬間は、視野の広がりとともに視覚情報がたくさん入ってくる。視覚情報を分析しようと、思考も活性化される。この時、これまでに見えてなかったものが見える感覚は心地よいものだと感じる。これが、坂道には日常と非日常の境目があると考える所以である。旅行したり遠出したりといった、別の土地に出かけるという非日常が遠くなっている今、身近な非日常である坂道を極めてみるのはいかがだろうか。目の前にある高低差は、古代から連続したものの可能性もあるだろう。季節によって、天気によって、またはその日の心持ちによって、見えてくる風景が確かにある。坂道の斜度によっては、ちょっと足に負荷はかかるけれど、ただ上ってみるだけで今まで知らなかったことを知りたくなるかもしれない。

(了)

<参考ホームページ>
千里山自治会.com
千里山会
スイタウェブ

※この文章は、PLANETS Schoolで2020年7月に開催した「レビュー添削講座」への応募作品です。

PLANETS Schoolとは、評論家・PLANETS編集長の宇野常寛がこれまで身につけてきた〈発信する〉ことについてのノウハウを共有する講座です。現在、9/10に開催する「ショートエッセイ添削講座」への応募作品の募集を8/28(金)まで行っています。ぜひ、チャレンジしてみてください!
※ご応募はPLANETS CLUB会員に限らせていただきます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?