Tawagoto  neo imperialism

私たちが学生の時代は #非関税障壁  なんて言葉が研究テーマになったりしていたのですが ま、大昔です

日本は戦後、圧倒的に安い人件費と、圧倒的な手先の器用さで、原料を仕入れ、製品を輸出して、外貨を得て来たわけですが、同時に、その間には、労働従事者の所得は上昇を続け、文字通り豊かになった訳です。やがて、バブルが発生して、それがはじけて、失われた30年が現在も失われたままに継続しているのです。

それを、やれ、国民が豊かになり、賃金が上昇したことで、国際的な競争力を失ったとか、本気で言っている人がいるのも不思議なのですが、もっと言えば、現在人件費の安い新興国でさせ、賃金が上昇すれば、日本同様に競争力を失い厳しくなるなんて、言っている人も同じですね。

まあ、この製造コストを圧縮することで、利益を得よう、競争に勝とうなんて、本気で考えている人が、実は、未だに存在しているために、いつまでたっても日本は失われた30年を、31年32年とカウントし続けるのです。

安くて、ある程度のクオリティのものが輸入できるなら、そこに価格で戦いを挑むなんてバカバカしいことで、それは、もう競争ではなく、その商品を買えばいいのです。さらに、その商品に関して、何のアドバンテージも実際にはないのに、#ジャパンメイド だから安心とか確かな品質とか、言葉を付帯して、まして価格を並べるのでもなく、高く売ろうとする。それは、流石に生き残りません。

さらに、価格競争は最後には共倒れする、さまあみろ、とか、悪い言葉を吐いて撤退する経営者も居ますが、これも元外れ、で価格競争の末路は共倒れではなく、最終残存者利益もあるので、撤退を決めたら、後ろ向きなエネルギーを悪態についやさず、切り替えるべきですね。

前出の、現在は安い生産コストで一人勝ちしている国は、やがて自国の人件費がという国のお話ですが、これらの国は、自国民が豊かになることを、決して悪い事とは思っていません。自国民が豊かになって、生産コストが高騰し始めた場合は当然のこと、外に生産拠点を移すか、安い人材を招聘するかです。ただし、ここにも大きな問題が生じます。安い人材を招聘する方法はどうでしょうか、法律的にも、人道的にも、治安面などいろいろ考えても、弊害だらけです。日本人が嫌な仕事は、外国人でも嫌ですよ、自分たちが嫌なことを人にさせるのは違います。では、外に生産拠点を移す方法はどうでしょうか、これはやりかた次第です。生産拠点を作り、技術を指導して、安定的な雇用も提供して、ともに発展っする。先方の国益にも叶うならば、それは悪い事では無い。お互いの利益になる発展です。ただし、この場合も、その国がやがて豊かになった場合のことも念頭に入れる必要があるわけですね。こうなると、新興国はやがて自立する、その時に発注元だった国はどうするのか、綺麗な形は、発注していた国もまた、新たな産業構造へと進歩する必要があるのでしょう。一番良くないのは、大国主導の、一大経済圏が出来上がるとことです。生産も消費も物流も、大国が主導して、傘の下の国々はそれに連動するしかないような構造になることは極めて不健康だと考えます。搾取の構造です。これを、言い換えて、逆に1国の主導でなければ良いのか?と言う疑問が湧きます。共同でかつ対等に、発注者と受注者で物事を解決できればどうだろうか、これは理想かもしれませんが、現実的ではありません。これほど難解な状況の中、EUはどうなのか? 現実的ではないと申し上げた関係と、近い側面を持ちますが、これが決定的に違うのは、それぞれの国々の関係性に、発注先と発注元という関係ではない事ですね。発注先と発注元が、きわめて相互に関係性を互換できれば、共同体としての関係は安定的に保たれ易いと言えます。とはいえ、簡単ではないのですが。

ここで、話は大きく飛びます。一方で、ここから書く話が、実は大きく飛んでいないと思う方もいるかもしれません。

日本が衰退した理由ですが、人件費高騰により競争力のある商品が生み出せなくなった事ではありません。その理由は単純です、日本と言うマーケットが縮小したことと、日本人の購買傾向が変化したことです。その原因は、商品購買決定の動機付けが、価格によるところが最も大きいいと考えたことによります。日本には1億2千万を超える人口がおります。この人口は、今世紀に入ってから、右肩上がりで増えることはなくなりました。これは、2000年以降は人口減少に伴い総販の減少がみられるのは当然であり、これを補うためには、一人当たりの消費量を増やす、単価を上げる、これらにより販売の落ちを補おうとするのは当然です。もちろん、国内の減少分を海外に求めるのも一つですね。逆に言えば、縮小するマーケットにおいて、価格競争を仕掛けるという事が、どれだけ危険か、なぜこの時期デフレに陥ったのか、それは、右肩上がりに関する猜疑心だったのかもしれません。80年代の反省かもしれません。ただ、人口減少の場面での価格競争が意味するものの弊害は、今は目に見えているそれです。逆に言えば、人口減少の場面でもなお、価格と品質を右肩上がりにする努力をすべきだったのです。なのに、生産量を右肩上がりにするために価格を下げる供給過多の、価格減少のスパイラルを自らが描いたのです。成熟した市場に受け入れられる送品を開発して、その開発に当たっては、きちんと開発コストを使い、顧客満足を追求しつつ、購買層を形成するのもまた企業だと知るべきでした。そうです、付加価値に支出できる可処分所得の多い、生活者を構成するのはも企業なのだと考えるべきでした。

この必要性は、20世紀末の米国でのベビーブーマーマーケティングが、これを論じていましたし、現実にこの時期に、米国は、この層を取り組むための大掛かりな取り組みをしていました。

日本は、この判断を完璧に誤ったために、今があります。

日本は、ある意味で、12000万人むけの、マーケティングをきちんとすることが重大です。島国ですから、さらに、近接エリアには特徴の異なる国々があり、自国愛の強い日本のメーカーには、日本のマーケットは絶対に有利です。海外競争力を養う以前に、国内改革をすべきです。そうしないと、技術も人も、金も流出してしまいます。

コロナ渦の中で、最低賃金の大幅な引き上げを行った日本にも、この意味が理解されつつあるのだと思う。その意味でアトキンソンさんの主張はとても素晴らしいと思うのだ。






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