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富の再分配 って? 経済学は文学だ


はじめに

本日はブラック・ジョーク(カシオペアの楽曲ではない)から始まりましたが、富の再分配、富の循環のお話です。

物事は批判だけでは、なかなか先に進まないものですね。誰が悪い、何が悪い、ネガティブな方向の意見はとても多い、大体マスコミさんがワイドショーなどで取り上げる場合もそうですよね。権力の監視という役割には、正しい行いをきちんと評価することも含まれると僕は思うわけですよ。 とした上でのお話なんですが、政府が富の再分配という考えをあらわしていますよね。富が集中して、格差社会になり、底辺層が疲弊しているのに、企業業績が最高潮。こんな事は、やっぱり良くないでしょう、ということなんだと思うのですが、やり方をどうするかです。 簡単に言えば、儲かっている企業は、社員にきちんと利益を還元しなさいよ、ということなんですけれど、これが簡単じゃないのですよね。ならば、何処かに阻害要因がある、それを書きつつ、じゃ結論は? というところまでを、いつも通りに、数字を交えないで書いていきます。

なぜなら、経済学は文学だからです。

格差を容認するか否か? ではない

そもそも資本主義と言うものは、格差そのものなのです。だから、格差社会を否定することは資本主義の否定に繋がります。なので、資本主義を貫く場合の、適正な再分配、格差社会の見直しと声高に叫んでも、実現に向けて動いても、可能なのは、あくまで、程度の問題なわけで、根っこを変えることは無いわけです。そもそも、資本主義とは何か? 古典的な資本主義を観ると解りやすいです。

資本主義ってなに? ならばこんな本も出ていました。

#池上彰の講義の時間 高校生からわかる「資本論」池上 彰 (著)


さて、お話を戻します。

生産手段と能力を有する資本家が、自己の時間と労働力しか商品として売るものが無い人々からそれを購入し、それを上回る価値のある商品を生産販売して利潤をえる経済構造。なので、常に資本家と労働者の間には、上下関係と格差が生じる。 なので、前出の資本主義を貫く限り、格差は発生するので格差は容認したうえでの程度を議論するものとなります。さらに、付け加えると資本主義の主体は、あくまで私であり、決して公ではないこと、つまり、生産手段の私的所有と利益のための運用を基本としますので、私有財産と財産権の所有は当然のこと認められ、価格と分配は市場における自由な競争により決定するものとなります。自由資本主義 liberal capitalism と呼ばれます。

公でなくて私(私企業等)が資本主義の基本

資本主義の基本は、公でなく私であり、私企業の活動がその中核になります。企業は利潤を追求して成長していきます。成長こそが総ての原動力だと言っても、差し付けえないものです。私が成長し、企業が成長することで、国は栄え、国際社会の中での競争にも勝利する、企業に労働力を提供して富を得る労働者であっても同じことです。この自由と健全を前提とする経済社会の中で、公の影響力が強くなるとはどういう事でしょうか? もし、公が、これを管理した時、資本主義は変化していきます。むしろ、資本主義とは呼べなくなってしまうでしょう。価格決定を市場に委ねられなくなったらどうするか、利潤を公にコントロールされたら、それは、所謂、健全な競争原理を消すのは当然のこと、経済全体における、公の関与する部分が拡大し、権力の分散と富の分配において、公が大きな決定権を持つようになるでしょう。こうなると、利権をめぐって公優先の経済が始まるのですが、これが、歪な資本主義の源になります。

国家統制下の資本主義

これ、に関しては、触れだすと切りなしで、記事は膨大になるので、大部分を割愛しますが、資本主義を推奨していながら、実は、許認可 補助 助成と併せて経済を支配する国があります。一方で、資本主義は初めから相容れないとしながら、その市場経済は無視できず、資本主義を公言せずに、国家資本主義を突き進む国があります。その、いずれもが、お互いに違う存在としながらも、似ていて非なるもの、というより、似ても似つかない、同じ存在に近かったりします。

少なくても日本は全社ですが、これは、民間にも旨味があるのですが、旨味の代償はあまりにも大きいと、そろそろ気付くかと思えます。


結局は制度の問題よりも人間の問題

平成になり、令和になり、企業経営者は、創業オーナーワンマン経営から、サラリーマン社長、または真逆の社長請負業、が台頭してきました。反面で、新しい産業分野では、若き創業者たちが、膨大な利益を得たのもご存じのとりです。ここでは、それとは違い、プロスポーツのトッププレーヤーのごとき、活躍をする、雇われプレーヤー達のお話です。

この人たちは、企業の業績が総てです。さらに問題は、この人々の中には、自身が経営トップでいる今、その時に総てをかけるので、長期的な展望や、勝利性などに、あまり興味を示しません。なので、極端なコストカットを行ったり、株価を押し上げるような方向を好みます。また、同業他社を凌駕して、業界全体の利益を害したり、功罪多い存在です。この手の方々に、アベレージ好成績を上げるタイプは少ないのですね。

このタイプの経営者が多い経済社会では、どうしても労働差の所得は停滞します。

国は適正な再分配の方法を間違っている

国は、許認可と実弾である金の力で、権力を掌握したいのです。もちろん既に獲得しています。経営者は、業績を残したい、こうなると、根拠ない賃上げ要求に企業経営者が賛同するはずはありません。けれど、これでは困るのです。企業が給与として再分配しないのなら、国が現金給付を考える、ただし、様々な縛り方をして、子供に配る。非課税世帯に配る。企業には、賃金を多く支払った企業には、法人税から控除するとか、本末転倒な話が見え隠れします。

バラまきは、全くもって愚かです。これは経済の活性化に対する効果は限定的、いや極めて無駄だと感じます。さらに、ある金を分配するのならまだしも、これに対し財源は赤字国債の発行だとしたら、目も当てられません。借金で借金を埋めるのならまだしも、借金して無駄遣いして、その借金を納税者に負わせるわけです。

大企業は儲かり利益を上げる中、中小零細は、それこそ疲弊して限界を迎えています。中小零細に賃上げする余力はありはずも無いのはわかります。さらに、利益を出している大企業、そこに勤める従業員がその利益を潤沢に分配され潤っているのか? それは必ずしもそうとは言い切れません。

現実直視の取り組み

非課税世帯、生活が困窮しているから非課税なので、給付金で弱者救済という見え方をするのは意味がありません。困窮した生活、非課税世帯、一時的な10万円が何になりますか? やっているふり支援では根っこは腐ってしまいます。もらう方も、無いより1万倍まし みたいな考え捨てて、根っこが健康になる方法に声を上げたらいいですよ。生活困窮者を救うのは、1度限りの10万円よりも、継続的な自立支援なのです。それを、やるべきなのです。教育 就労 医療 介護 多面的複合課題に向けた取り組みです。

18歳までの現金給付 これの方が実はまだ、ましかもしれません。生活困窮者へ給付よりもです。その理由は、可能性のある人間への投資だからです。投資的な意味合いは公金を出す上では大切なことで、ある意味で未来志向の給付とは言えなくも・・・・

我が家は、いずれも対象ではありませんが、貰えないから 不公平と いうつもりはありません。

でも本来は、再分配のフローの中に、公の意思と公金が入り込み、公金の財源が赤字国債だとしたら、実は本末転倒の愚作です。全体が見えにくくなるばかりか、再分配サイクルを壊しかねません。

提案したいこと

日本の場合は、現行法人税率は確かに検討の余地があると感じます。仮に下げても、下げたっ分が、その企業の人件費に回り従業員を豊かにすると同時に、消費を向上させ、時間を追ってすべての生活者に好影響をもたらします。やがて所得税収も伸びはじめていくでしょう。さらに税率を下げても、法人税収額がきちんと増えていけば、これは好循環と言えます。さらに言えば、この好循環は、儲かっている大企業だけの事だ、などと批判しないでください。構造的に安定した利益が生まれない中小零細、業種業態は、改革と改善が求められることは事実です。これは、その企業の努力に依存するものもありますが、一部には、下請けに対する大企業の扱いなど、自社でもどうにもならない要因もあります。ここは、国家の介入ではなく、健全な議論に基づいた、制度改革を必要とし、それで改善できるのなら、躊躇なくやるべきです。社会に再分配の好循環が起きれば、かならずすそ野も潤うという、当たり前の実践は急務です。同時に、中小零細規模であっても、当たり前に下請け孫請け、と諦める必要のない体制が、現実になると私は思います。なぜなら、以前よりも、ノウハウ、情報、技術やそれに付随する知的財産権や特許などは、よりその価値が厳格化されていくでしょうから、王手一人勝ちの構図も変わっていきます。まあ、理想は  #下町ロケット  池井戸潤 (著) ですね 

同時に経営者は、業界内の競合他社や財界各社とのバランスを気にすることなく、さらに外圧を無視して、自社と従業員並びに株主への最適な経営を行う事が大切で、これを阻害する業界団体や経済団体なら、むしろこちらを改革すべきだと思う。絶対評価の経営の方が、今の時代には即している。

そろそろ、ありがとうございました。本当にご苦労様でしたと言おう

なぜ、日本の体制がこれほどまでに、お国主導に偏っているのかといえば、それは、  #官僚達の夏  城山三郎 著 に他ならない。

焼野原の東京から、高度経済成長そしてバブル崩壊まで、日本を復興、成長させ、国民生活の基盤を安定させることが出来たのは、日本人 一人一人の創造を超えた努力と、それを導いた、国家の力だということを、今更、否定することなどありはしない、奇跡ともいえる回復を日本は実現した。時代の人々が、知恵を絞り、そして力の限り努力して、築きあげた社会制度、ノウハウは、本当に素晴らしいものだ、そのうえで言えるのは、時代は変化する、総てのものは変わらないという事は無い、経済も政治も例外ではないのだから、だから、今は違う時代に変わったのだから、制度も政治も変わるべき時がきている。 だから、こそ、最高の敬意を持って、旧態の制度、政治、経済、企業経営は退役していただこう。

ここからがはじまりです!


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