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58th の世界に 建築は常に謙虚であれと思う夏に・・・

まもなく定年を迎えるのだけれど
そんなことはどうでもよくて
白髪 や 禿頭 皺だらけになった爺さんが 会社を去る
そんなのが、僕にとっての定年のイメージ
挨拶の機会を与えられ、大きな花束と拍手の中で
その儀式は行われ
特別な1日は過ぎていく
けれど、次の日はおろか
主役がその場所を出て行った瞬間から何もない日常に
そんな光景を何度も見ているうちに
人間の滑稽さを感じていった

今 僕は 疲れ果てた 老人ではないし 現実 他人の見た目にも
そんなイメージは持たせないと思う
送られる日は黙って 消えたい
花束も 言葉も 挨拶も いらないと心から思っている

つい、1年とちょっと前まで、働いていたオフィスビルがある
短い期間だったけれど、僕はこのオフィスビルがとても好きだった
日比谷公園を見下ろして、レベルの高さには帝国ホテルが見えた
エントランスの作りは無駄の多いデザインで無駄がアイデンティティ
スクエアな建物に、外周をバルコニーが囲む
無駄に広いエレベーターホールが建物の両サイドにあった
窓の無いスペースにエレベーターシャフト、トイレ、給湯室
オフィススペースの総ての部屋には窓が配置される
1961年竣工 と記録があり その文章には 東京都 千代田区 内幸町にあった建築物 と ネットには出ている。
2002年8月から解体されている の進行形だった。

先日、仕事帰りにここを見に行った
かつて、ここにあった という名残は存分にあり
解体の最終工程という佇まいだった

今、新しい 建物が 草木が伸びるように建って行く東京で、景色に溶ける建物が立つ次代から、景色自体を作る建築に変わって来ている気がする。
それは、思うけれど、どこか造り手の奢りが感じられる
建築と言うものは、使い手の意志を考えるのは当たり前なのだろうけれど、本来の環境、その土地、気候、風土に対しては、常に謙虚であれと僕は覆うのだ。 

気候を無視できるエアコンの中に生きる人間から生まれる創造物と
風と光と空気を感じながら生きる人からうまれるそれとでは
似ていて非なるものが生み出されるだろう
建雄の自体が景観になり、建物の中に 登り坂があり、下り坂があり 日向があり 日陰があり 構造物の配置から生まれる風光 のそれらが、天然のそれとはまるで異なった場合、そこに生きる人間という存在自体が、どう逃れようが、自然の一部である以上 そこには自然との間に #cacophony 不協和音 を放つのだと思っている。

僕はこの数年、仕事の関係で都内の代表的な建築物のいくつかで仕事をさせていただいた。それも、ある程度の期間をその場所で過ごして、次の場所へと動いた。私は建築に関しては全く畑違い、文系の業務をしている。
ただし、過去に建築に関しては極めて偶然なのだけれど畑違いの方と接した事はある。
例えば、横浜に新しい形の商業施設を作ろうという構想が官民強調して行われたことがある、この仕事において、建物というか施設全体をどうするのかに関するお手伝いをさせていただいた。
米国までミッションをおくり、ハーバーエリアの都市開発を調べに・・
これはサラリーマン次代の思い出の仕事でもある
その時にも感じたのは、建物は人工物だけれど、それを使う人間は生物だということで、アメリカはその辺を理解している というわけではなく、むしろ洋の東西を問わずに、ある時期の建築物や工業デザインの分野では、そのことを強く意識した時期があると感じた。

今日話題にしている、日比谷の建築物もその一つなのではないかと思う。
その後に通い始め、この夏までいた、建築物は、現在の最先端建築と、日比谷のそれの中間に位置する時代背景を代表する建物なのだけれど。
これは、日比谷のそれとはまるで異なるのだけれど、一言でいえば、とても居心地の良い建物だった。

この時代のものは時を経てある種の風格が景色と共存する


現在は、最新と言えるオフィスに居るのだけれど、自分の指先で触れることが出来ないブラインドがあったり、エレベーターシャフトが外壁側にあったりと、コンセプトワークと拘りに言いたことは解る気がするのだけれど、そのテーマは何より普遍的じゃないよねと言いたくなる。ましたやトイレからの景色が絶景であったり、用を足すスペースは最小で、それ以外がべらぼうに広いのは何故か?
トイレからの #景色#映える  からと 写している人々がいる
ちなみに画像の染みは、この携帯端末は一度水没しているからだ。

トイレからの景色が・・

この作品も大好き


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