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HongKong 編(活字にしたら嫌な男)

まづはこんなことから

カバー写真は横浜の美味しいお店のワンタン、本文とは無関係です。


これは、自分自身のことを書いています。そう、先日書いた記事みたいに・・・ その記事とはこれらです!


これもそうなんですが、1980年代~1990年代の僕は、とても良い日々を過ごしていたわけです。1983年入学、学生時代、通学は車、免許取得と同時に父親の車が自由に使えたから、e-12 520を乗り回していた。10年落ちの旧車だったけれど、インパクトの強い車だった。アルバイトは、テニスショップの店員、やら季節のバイトを様々やったもんだ。旅行屋になってからは、一年のうちで、程よい日数を海外に出してもらえていて、そう年間に100日とはいかないものの、40日では全然足りないくらい。仕事がら、同じ場所だけではないので、飽きることもなく。アジア アメリカ ヨーロッパ アセアニア そうそう、海外にいる間は日当も給料とは別に出るし、食事代も出る、入社当時は支度金なんて制度まであったし、さらには・・・ 仕事柄、美味しいものにも出会え、美味しい思いも多く、素敵なホテルに泊り、良い事ばかりじゃないけれど、悪い事ばかりでも全然ない、プライベートでは、アウディ80 2.0e を新車で買い、空港までの往復にも活用。オフには、冬は苗場に通いまくり、プライベートの海外旅行も年に数回。2泊3日でグアムへゴルフだけしに行くとか・・・ 活字にすると嫌な奴 そうかもしれません。

けど、人生ってやつは、案外、フェアにできているもので、一時の悦楽娯楽は、きちんとどこかで借りを返させられるのです。簡単に言えば、人生って常に 50:50 の絶妙なバランスで出来ていて、幸福の付けは不幸で支払をしているのです。だから、幸福に見える人も、それなりに辛いことが訪れる、ただ、不幸は幸福よりも目立たない、それに幸福を僻む者がいても、不幸は案外気にされないのです。それが私自身であり、他の皆さんもです。それに、俺の人生は良いことが無い などと感じている人は、意外にも、幸せ それも極めて平凡の中にある幸せを、何よりも尊いものだと気づけないでいるのです。そんな方は、一見不幸に見えるのですが、実は、誰よりも何よりも貴重な、平凡な幸せを、幸福感無く享受している人なのです。

そんな、僕の人生のいい時期によく訪れたのがココ

Hongkong 香港 でした

1990年代の初めごろの話です。
その時期急成長している企業があり、その企業の担当をしていた時の話です。その企業は製造から販売までを総合的に行う企業で、急拡大の陰には、努力と学びがあったわけですが、その学びの対象が、米国、やアジアだったわけです。米国では、経営戦略の根幹にかかわる部分を学び、アジアでは主に生産拠点と財のフローを見つつ、若手社員の福利厚生を兼ねていたと言えます。その、行き先が、香港と決まっており、事業が比較的落ち着く、決算前でありかつ、マーケットが穏やかな動きを見せる1月下旬から2月初旬にかけて、何回かに分けて全国の社員を対象に行われわけです。
年明けの香港は、年末で、九龍側の建物もセントラルのそれも、綺麗と言うか派手なイルミネーションが大迫力で施され、このイルミネーションが1月なのにクリスマスのままだったり。物凄い活気を持っていたのです。年明けの香港は年末で  は?? 普通に読むと わけわからない ですよね。香港は旧正月なので、1月は未だ年末なのです、さらに年末とクリスマスが重なると、その期間は12月後半からづっと続くわけです。香港のこの時期は、寒さもなく、最低気温でも15度程度はあって最高気温は20度を超えていたと記憶しています。滞在も1週間以内、コートも要らない、荷物も少ないスーツケースで言えばオイスターで充分というディストネーションでした。
当時、この香港にはとても仲良しの友人がいて、彼女とはビジネスを通じて知り合いになったのですが、とても気が合って、香港に行けば、会ってたし、彼女が来日すれば、日本でも会っていた。この関係は何年も続いたのですが、いつでも会えるさ、いつでも連絡つくしね  が いつか行方知らずに・・・ お互い
彼女と出会ったころ、毎年、1月の末から、2月の頭ごろにかけて、もう、笑っちゃうんですが、火曜日に成田を出て香港に到着し3泊して金曜に帰国、翌週の火曜日にまた出発、これを3週にわたり繰り返す。そんなことがありました。最初は、あまり勝手もわからずに、チムサッツイのシェラトンとかに宿泊していたんですが、2年目かなあ、シェラトンほどの大きさはない、こじんまりしたホテルに宿泊したんですよ。ロケーションも少し微妙な場所で、でもでも、この丁度いいホテルが僕には丁度良くて、お気に入りでした。何がお気に入り?と聞かれると、本当にコレというものはないのです、でも丁度良かったのです。そのホテルが、ロイヤル・パシフィックというホテルでした。到着すると、先ずはこのホテルに落ち着いて、ここを起点に行動をするわけです。

このころの香港と言えば、 #100万ドルの夜景  100万ドルという貨幣価値がどうなのか別にして、さらにこのドルは、香港ドルなのかUSドルなのかもわからないままの夜景。高台から見に行くわけですが、あれ、これなら函館の方が100倍凄くないか? とか、アバディーンの水上レストランとか、フローティングレストラン、JUMBO と 太白 と言うのが、沖に浮かび、そこにジャンクで往復送迎が付くと言うやつでした。レパルスベイ 映画慕情の舞台 とは言う者の、1965年生まれ、当時の若者である私には、慕情はレパートリーに無い映画だったわけです。半面で、友人が案内してくれる場所はどこも魅力的で、夜中に海底トンネルを抜けて、行く先のレストラン、バレットパーキングでベルに車のキーを渡して、メインエントランスに乗り捨てるスタイルは彼女が同世代でもあるにも関わらず、カッコ良く映ったものだ。あの小さな、半島と島からなる、小さなエリア、あのエリアが生み出す、金融、経済面のパワー、そして文化、そう映画で言えば、僕らには慕情ではなく、まさに代表作があの #恋する惑星  だったわけです。ここに登場するUAのCAさんのユニフォーム、あのロゴマークもフレンドリースカイのキャッチの時代のUAでした。

私たちは、ここに訪れる際は、なぜか、JLさんが多くて、当時 リリースされデリバリーされたB747-400 そして、D-10でのフライト 風向きによってはあの有名なカイタック・カーブでランディングする時代だったのです。眼下に見えるのは、まさに人々の暮らし、この光景は世界の様々な空港に降りても、ましてや現在の香港でも見ることが出来ない景色でした。そう考えれば、啓徳に到着するあの独特な雰囲気、的士 TAXI と書かれた赤いクラウン 蒸し暑さの中に光る黄色い看板に黒の文字、その総てが香港だったのです。

ハバークルーズと言えば聞こえはいいけれど、車を積んでいないフェリーで、軽く飲み食いをしながら夜景を見るという、変なアトラクション、生暖かい夜風と、奇妙なイルミネーション、その全てが今になって思えるのです。 #唯一無二な世界だとね





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