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断片・欠片・材料

今回は久しぶりに細切れをポツポツと(メモ帳を元に)。

【悉くかよ…笑】
そう思った時、”私”が消されている事に気づく。
それは、その時「自分」という私が決めて、何か別のことを選択し、行って良いのだから。

事実、そうする事も”可能”であるから。
だけどきっとここの意味は、その何か「その時」によって私は打ち消されてしまう様な”状態”がそこにあるのではないか、と。

小さな”私”を掘り起こしてもいい、その”時”を打ち負かしてしまっても構わない。それはこの私だからだ。

・・・

最近は、少し前(数日前)に書いたものを読み直して「ここから繋がっている」という反復をしていないけど、ふと、その言葉は湧き上がる。

”自分が”表に引き出されていく―――。

(昨日書いたこれと)場面・使い方は、その時と違うわけだけど、その”状態”から脳はソレを引き出して(繋げて)私に見せてくる。

言葉・意味での結び付けよりも、その「状態」に絡むこととを繫げ、引き出してくるものを、こちらという”私”が掴むから、意味・言葉が薄れてくるんだね。

・・・

夢・音・世界・違う意識、ふたつの自分。

ニコルは一番人に合わせて生きている、私はそう感じている。

他の子たちも人、飼い主の動きに注目するのはそうなんだけど、中でもニコルは一番、”人に接している”利口な犬だと感じている。それは、頭の中もまたそういう事になるのだろうと思う。

ニコルは仮に他の子が外へ向けて吠えていても、つられて吠える事が全くない。主人は「ニコくんの声ってどんなだっけ?(^-^;」という位に音を出さない、そんな子。

その雰囲気を、どこかで私は感じるからなのか、「この子は一番、”口をつぐんでる”感じがするんだよね…」と話す。犬は吠えなければ、口を閉じている姿は珍しくなく、他の子と同じはずなのに、その表情がニコルには私はそう感じている。

”クッ クッ クッ クッ クッ…”

泣き声のそれをうまく表現できないけども、身体をピクピクさせながら寝ている時に”吠える”のは、殆どニコル。夢を見てるんだろうと、大体は短めで終わるそれを微笑ましく思って聞き、見ている。

休み休みでも少し続くようなら、身体を少し撫でてそれが終わるように意識をこちらへ戻すような行いをする。ニコルが何か悪いものを視ているとも良いこととも何も想定していないのだけど、ただ少しゆっくり眠って欲しいという、私の根拠のない制止。

『ニコル、そこで何を視ているの?(*^^*)』

普段の状態とは違う”ニコル”が、そこには居るのだろうと思う。

・・・

私のよく座る位置から、電子レンジの扉に映る”すがた”を見ていた。

ジーっと、しばらくの間ジーーっと。何でって、それが何を映しているのかがまったく分からずに、暫く考えていたものだから。

(なに?その色、その歪み。えーっと、、、何だっけ??)

記憶から何も出てこない。だからただそれだけを、ジーっとしばらく見ているしかなかった。

(あー、そうか。そこに置いておいたんだわ(^-^;)

飲む時間帯を朝から変更したサプリメント。定位置に置いておくと意識からこぼれて忘れるため、習慣になるまで目につく所に置いておく―――、それが映ってビヨビヨ~と色や形が歪んで見えていた。

結びつくものが”ない”時、人は想像すらできない。

何を、どこを、どの様にソレを観てよいのか、見当がつかないから。


これに関しては、その後の犬の散歩でも少し考えていた。

(私が)何かを思う・考える時、それは私の中の記憶から引き出しているという事なんだよな…。この頭の中にそのデータが記録されていなければ、「それはこうだよ」という情報すら自分に渡されない。私が分かる・知っているという事は、私の中からしか拾っていない事が多いという事だ…。

それがなければ思うこと考える事、そしてそこから先に繋がっていかないため、記憶は大切なんだけど、目の前の新規ごとも、その様に見て処理されてしまう。

そして、”その行い”は確かに「した」というその情報・記憶はあっても、そこから繋がる広げた視野・視界まで結びついていないために、その情報だけでは”分かる”事ができなかった。

その事と、それに結ばれるネットワーク”周辺情報”。それらの結びつきがあるから、スムーズに引き出してこの自分が”分かる”事ができる。内側の情報と外側の情報とをオモテウラで張り合わせるようでもある。

「その事」というある一つのことから、他の周辺のこととが結びついて、使える視野が拡がる。

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私は向き、矢印(→・←)のことを書いたりするけども、それはその様にとにかく感じる、という事はそれとして。

外と言われる(そう解釈する)その世界は、いつも変わりなく動いているわけで、それを動いている状態として見えていなかった”自分”が、見る事によって意識されるから変化を実感する…すると内側が慌ただしくなる。そういう事はひとつ言える。

その”意識”が、自分に立ち上がった事によって、外の”該当する”世界を見る事が可能になる。世界という外のそれ自体が無意識なのではなく、この”私”が殆ど”無意識の目”でそれがそうなる、ということ。

こういう似たような説明、解釈、角度を変えたりしながらチマチマ重ねていくと、外の世界が自分の無意識の世界とイコールという”距離”になって行くのだと思っている。(表現が違うだけで既にこの内容は書いていると、私の中では思うから)

外の世界が「私」だなんて、頭で考える事はできても、なかなかその距離を縮める事はできない。だけど理解から入るなど、分からないというまだ”外にある状態”でも重ねていくうちに少しずつ距離は縮んでいく。理屈ではイコールとなるけど、実際に自覚の意味ではニアリーでベストと思っている。

まず思うままに。

久々に並んだピースとニコルだったな🐩

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!