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〈ワン散歩〉

彩雲を見ながら ”キレイね、ありがとう”と。2陣散歩はスタートから少しの日差しと彩雲があったから。

上を見てる時間が少し長かったように思う。

家に到着間際、当然下を見る。上を見ていても家には入れないから。

ふと思い出す。

『誰のものでもない この空か―――』

ゆっくり目線を落としていくと見えてくる人の世界。

「あー。区切ってる、区切られてる。ここが(私の)ウチ…」

”私の”、か。下に来るほど所有という概念が濃いな、と。


また、別の日には。

1陣のバズとピースは興奮タイプ。周りに反応しやすく、強い引きグセがあって、出来れば人に会いたくない。人などとのすれ違いざまのバズの吠えたて、引っ張りは強烈。

動物の突然の動きに人が付いていけない事も多々あり、私も気をつけていて、気は抜けない。肩や腰などを痛めた経験から出来れば避けている。

そういう理由で2陣とは雰囲気の異なる散歩になるのだけども。当然出くわす事だって普通にあって、「あ~、会っちゃった」と、2ヒキのリードをできるだけ短く持ち直して、距離が縮まっていくのを準備して歩く。

深呼吸しようと自然と顔を上げていた。瞬間、

「いない。ここには誰もいない。私だっていない…」

そう思っていた。時系列は〈ワン散歩〉の後の出来事だったから、自然と流れを汲んだのだろう。


今の私には「安定」という言葉が良いものかどうか判らなくなってしまった。先日ハッシュタグで『安定を失い自然に動く』と入れたのだけども。人々がそれをどのように捉えるのか私は知らないけれど、個人的には好意的に感じている。

だからと言って全てに”そうなれる”かどうかは、それが目の前に来なければ未知の事。生きている間に起こる事など判らないのだから、そういられるかどうかはその時じゃないと分からない。

実際にアタマで理解していた事は当事者になって漸く少しだけ実感する事。


最後は再びメモから。

経験するほどに。

人のそれになる事は、想像でしかなかったのだと理解する。即ち、そうであるし、そうでないという事。同じくあり、全く違うものでもある。

現象・反応が同じ、としただけで、ちっとも「同じ」なんかじゃなくて。

私はそんな風に感じている。

だから。

せめて唯一、共通として見えるもの、生き物という存在としてその共通する「生きる為」、「生きたい」想いを尊重しようと。

目的を持つ生き物として、互いを認めようと、そういうものなのだろう…と。軽く意識に上げといて、ここからまた何かが走り出す。

ムリして謙虚ぶらない。体験すると「(自分は)何も分かっちゃねぇなぁ」を入手できる。その繰り返しで自然と謙虚になる流れ。

経験と謙虚の交換というのか、イコールと表現するのか…意味は同じか笑


「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!