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感知される状態

その、「スペース」に入ってくる時というのは、ワーッと色々が入ってくる(集まってくる)ので、”さて、どこから書こうか…”となる事が多く。

そしてこのこと自体も、もう今までに何度もこの”波”の流れを経験しているのだけど、その流れは大まかに自分の中のスタイルとして把握されていたとしても、その内容に当たる”具体的なこと”は、当然毎度違うわけで、そこで具体的なことは、「そうか…」という気づきを得る。

頭の中での理解から身体に落ちる時のそれは、その瞬間に”明るくなる”という表現は正にそのものだと思う。長旅の間にずっと引っかかり続けてくれる”何か”のお蔭で、文字通り「お陰」となり、理解は本当の明るさを持っていない。

それが、(自分の)回転が変わるからなのか、外側がその時と重なるからなのかは分からないけれど、陰になっていた部分が日に当たり出すかのようにパッと明るくなる…、”表現”はどこからでもできてしまうので特定の形を持たない。

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現在Xの固定に表示にある通り、standfmラジオは4月から週一回の「日曜のみ」へ変更することを決めた。

ここから書いて片付けていきます。

”内容”を決めないスタイルで、その時々の思うことなどを配信してきたのは音声noteの時から変わっていないのだけど、自分の中に起きてくる”ズレ”は、やはり見過ごせず、自分の中の配信の目的が(現在は)「内容ではない」という事と、決定してしまっている木・日配信のペースと、自分の内側が納得しない事によるもの。

いつものクダラナイ内容が、本当にクダラナクなってしまうのは私自身が面白くなく、「決めたスタイルだからやっている」という一番嫌いな形骸化がチラホラしたことに嫌気がさした。


思いややる気、動作行動と中身など、全てが一致しテンポよくできるから快適なのであって、そのどれか一つというでもなく、とにかく全体としてズレている事に敏感な私が不快になるという理由。

スタイルからやるというスタンスは性に合わず、パターンだからやっているという動きが自分に見え出すと途端にその行為に抵抗したくなる。自分の中に作った流れだから、という枠さえも嫌いで、その流れを維持する意味すら感じない。

という様なところから、まずは少し距離ができるようにと、週に一度の配信に変更しようと決めた。

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ラジオに関してはその様な所なのだけども、それを大きな目線に変えた時に見ているのは、目的から離れ習慣化してしまうその動作で、”やっている気になる”という状態に、私の中の何かが暴れる(笑)ことで、「一旦考えてみる」という事に繋がっている。

行いを継続することの意味は、色々な面で考える事はできるけども、継続自体で隠れていくものの方が私には大切に感じるので、こういう自分の中の違和感を拾った時の”見直し”は、きちんとしたいと思っている。

また、その幾つもの機会があって、そのきっかけの一つが、ワンのお世話という現実の動作を通して感じたことで、お世話することが特に増えたわけでもなく、お世話という現実の動きから他のこととも合わさってジワジワ何かが自分に近づき、「気づく」という事だったと思う。


人の意識の(自分の)、現実から簡単に内側へ入り込んで片付けてしまうこの意識の在り方をとてもはっきりと感じて、「習慣化」されたものへとすぐに潜り込んでしまうそれを見て責めるでも貶すでもないのだけど、「なんだ、それは?」という様な、何とも言えない自分の中のなにか、繋がれていたものがまた壊れていったようにも感じた。

何度も書いているのに、やっぱり何度でも「そうか…」とくり返し、何層も被っている薄皮を向いていく。

こうして、気づいた時に”表”に出て、またいつの間に入り込んでいる状態から気づくたびにヒョッコリして、そのくり返しで表に出る感覚をこの身に覚えさせるのかもしれないね。


表にある事がすべて最高のヒントだし、そこから動きを起していくという事が、人は本当に出来ない特殊な生き物なんだと、改めて思った。

頭の中で理屈から見ているものは、外側を一応見ているのだけど、外のそれをしっかりと確かめ把握しているのだけど、それは実に、現実までとはほど遠く、この現実と触れあっているこの面を、自分の身体を通して行っていても尚、意識は頭の中に居る。

私たち人が一般的に、「意識がある」と思っている状態、その言葉を使うようなその状態というのは、やはりそれは”意識”を捉えていないと感じる。

多分、何かを何も考えずにやっている、表では何かの動作が別の目的で(勝手に)行われている、というその状態の中に「意識はある」のだと思う。それを表で使われる言葉で言うならやはり「無意識」というものだと思う。


無意識という確認できない陰に隠れる存在を、言葉で表すことが出来てしまうから、陰でなくなり言葉という意味の世界でしっかりと”存在”する位置になってしまう。

存在しているのではなく、流れているものがあるという程度の”在る”という弱さだろうと私の中では感じる。

それが言葉によってハッキリとしたものになるのだとしたら―――。

「”存在”にしたいものは言葉にすればよい」という事になる。

言葉が世界を作れるのだから、それは利点として活用したいと思う。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!