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続きはまた明日!

本当にすべて「自分の学び」でしかない。

対象は自分以外の全て。

それをこの頭の中で結び付けていく作業をする。

・・・ ・・・ ・・・

毎朝のヌボータイム。
いつも見ていたのは緑の樹々たちだった。

そのモサモサと、風に揺れる姿を光学迷彩のように観たりと、そこにボーッと没頭するのが昔は楽しかった。

段々それも飽きてくる。

ただ緑の揺れを見て、寒くなって来た今では部分部分が茶けてきたのを感じ。窓を開けた時の瞬間に、「今日の感じ」を吸い込む。寒い空気が少し冬を思わせるような気がした。

⦅冬になるんだもんね…⦆

少しツンとした感じが「冬」を引き出して来た。

いつも飛行機が見える方角とその時間、向き。これはいつもの事だった。でもふと前方の空をよく見ると、空の汚れみたいな小さなポチは、かなりの上空で飛行機が飛んでいると最近把握した。

風に乗って一瞬、その音がここに届いた様に思った。目で粒が動く方を追いながら、いつもの方から音が聞こえ出す。顔を向けるといつもの方向へ飛んでいく飛行機。大きな音とやっぱり少し違う小さな音を別に聞き取れた…意識が初めてそこに向いた。

⦅ぁ…、こっちの音も少し拾える⦆

聞き慣れた音と飛行機が、樹々たちの向こうに見えなくなって目を正面に戻す。結構いつも飛んでいたのかな…?真上を見上げる様に目線が誘導される。

音が小さいけど、しっかりと聞こえ出した。

⦅ここはこういう音⦆

軽く入力した。


大分温かくなってきてワン散歩。

ピースのウンチを観て、食べ物を全量にしても大丈夫だろうと決めた。

小さく飛行機の音がする。

「この音は”ここ”の音」

あまりその場所で確認した事などなかったし、もっというと今迄は”ただ見ていただけだった”ものだから。朝の事から少し紐づけしようとしていた。

まずは真上をザッと、少し目を泳がせて小さな粒を探す…

「あった」。

この”感じ”の音と、その物が一先ず結びついた。


夢。
眠りが浅い、「もう起きてるんじゃ?」という位に、自分の意思が反映される感覚に近いその状態で見る映像。最近は起きがけのそれを確認してもわざわざ”夢メモ”もしないのだけど。

その理由は、日常にあった事が取り込まれている(整理される)という様に、その夢の中ではっきりと感じているから。

例えば誰かを思った、例えば〇と△という言葉に注目した、例えばこう解釈した…などの自分の日常で「自らそうした事」を明確に憶えている事が、全く関係ないストーリー内で全て網羅されている、という様な映像と、その中で”自分が”分かっている状態だから。


それを何度かくり返すようになって、「思うこと」が出てくる。

「”映像”だよな…、言葉(文章)じゃなくて映像」

昔の様に、文字の夢は最近では殆どないと思う。夕寝時に言葉を”音”で聞いている(流れている)夢はあるけども。

他者のそれは私には分からない事で、これは私が思う私の脳内のことであるけども、映像・画は言葉にならなかったその「”以外”の部分」も収められていると思っている。その中で、一部は言葉にできた「塊」で現されているけども。


最近書いた表現があったので、ソレとコレを双方から繋いで見てみる。

私は普段から(外の)物事の解釈に脳内で「画」を視るという表現をしているけども、出力も同様に脳内の”画”を見て、言葉にするという作業をするのだけども(全てではない)。

脳内の画がそのままポンとここに現わせれば簡単なのだけど、通常はそれができないので、交流手段として”言葉”にする訳で。またその言葉を繋いで意味の通る”文章”を作らなければならない訳で。

何度でも引き出せるイメージになっているようなものとは異なる、ほぼ瞬間でしか掴めない様な一瞬の画は、「ここ」に出そうと思ったら、極力短いモノで取りあえずこちらに上げなければならなくて。それが画から拾った「材料」となる言葉・単語。


それら幾つかが一応こちら側に取り出せたらば繫げれば良いので、取り敢えずのカタチを作ることはできる。

そしてこの「繋げる」上での見えないルールは、持ってこれなかったそっちの気配に恐らく支配、縛られながら作っていくのだと思う。だから全然”時系列じゃないし、バラバラなもの”文字”を使った表現は、読むことが前提になっている為に多くが整えられている。そしてそれが私たちの一般的な感覚としては、当たり前としている。

で、この「瞬間」のものは確かに正しいかどうかは別もので、以前にも書いてようにその動作・行いを出力→自身で確認(ズラし)→入力、と流れていて、一先ずの形を自らの目に見せることで何らかを感じたりし、それによって必要であれば、動作の工夫または、”間違いが含んでいる事”込みで
全体を取り込む。


そんな、自分のサイクルを観ている事でデータが集まり、結果的には精度が上がっていくという風に思っている。

自分の中をとにかく潜らせ、引き出し、出力また取り込む…と回していく事の中にしっかりとした「形」は浮き彫りになっていくのだろうと思う。

・・・

ちょっと書いておくつもりがそのまま連なりました。そしてやっぱり「この流れ」は自然で、その後すぐに”落ちた”と思った夕寝では「見せられた」事によりlineメモ。

脳内が少し忙しくなり結局眠ることなく色々な「見え方」を少しこちら側に上げた模様。

晩ご飯の用意を終えて既に眠いzzz


上記と全く別内容だけども。
先日の自分のメモを目にしてちょっと驚いた。

11/27メモ
言葉にした途端に軽くなるのが嫌だったかもしれない。
その重さ、言葉にしちゃダメだろうと。
その抵抗、違和感だったのかもしれない。
ただそこに感じ取る、シンパシー。

これは私自身のことに対して何か”独り言”をしているのだけども、この数日後に音声noteで「重さを感じたい」「実感を持ちたい」のでは?という主人の出来事についての私の感じた話をしている。

コトは全くの別件、事象は異なる。しかも私のこと・主人のことと別個のこと。それが観測する同一人物「私」によって観るものは、コトの内容どうこうではなく、「脳内の処理が同じ」という事が視えてくる。

同一。

この現実世界に見えている自・他など関係なしに、分ける/分けない関係なく「同様に」処理している、とここから感じた。”他者”という存在を認識していながら、ちっとも他者を分かれたものとして処理できない「状態」がある。

意識して行うよりも、無意識で観る時に捉えている情報は、「こちら側」じゃないからだろうと思う。もっと具体的な材料のボリュームが多ければ必然的にこちらに傾くんじゃないか…。


大きな意識は分離されていない、というのは、こういう所から言えるのかもしれない。現実側で既に「そういう表現はされている事」を、自分の中に感じたものに付けた表現とを結んだ。

いやいや、一応現実側っぽい言葉を書いておくと、「人は、”重さ”というものを無意識に必要と感じていて、その重しによってこの体の感覚と結び付けたい…。「自分の重さ」を自身に感じたいのではないか、その重さがないと、この”私”に知らせる情報として運ばれないのではないかと思う。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!