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生まれてくる力

人は、今が最高と思っている所があると思うし、自分は最低だと思う所もまた、あると思う。

それはその時、本人の事実であって確かにそうなんだろうと思う…その人の世界においては。そして他の回線(道)を知った時それは「そんな事はなかった」と新たに結び直したりもする。

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「拗ねる」という様な思いになることに関しては、既に下書きしてあるlivedoorブログ(18日アップ)でストレートに触れていたと思うので、ここでは書かないけども、そういう思いになってしまう”仕方なさ”は認めつつも、やはりその空間から脱しない事には見える世界は全く変わらない。

何年ものあいだ、口数は少なく興味関心も乏しく、”自分の中”にいた(と思われる)我が家の主人は、今自分以外にも関心を持ち、自分の中の意欲にもう一度火を点けている。

誤解のない様に書くと、今でも口数は多くはないし、興味関心の範囲は大幅に広くなったという事でもなく。だけど、”今まではそんな事に関心がなかったね”という事に、いくらかでも気を向けている状態がある、ということ。


また、主人の関心の範囲は狭くとも、私からするとかなり深いものも持っているので、それもまた否定するものの意味はなく。「”自分”の外に目を向けている」というぼんやりと、でも大きくなっているそれを表している。

昨年から大型トラックに乗るようになり、そして半年経つ頃、給与明細を見て驚いた。何か改定があったの?と思うほど多かった。

会社には色々細かな”走行ルール”があるようで、そのコース(距離)により勝手に手当てが付き同じ仕事をしていながら、かなりの差が出ることを知ったらしい。ましてや、コースは引き継いでいるもので、”貧乏くじ”は引き継ぐ…、そんなつまらない話はない。


「(積み込み)センターでの配車担当は、そういう会社のルールなんて知らないから、いつもの様に偏って配車を組むんだよ。それを少し知ってもらえるように話した…」

大体はその様な内容だった。

固定ではないので、コンスタントの話じゃなく変動込みの話で、それはそれで別に良くて、主人の会社やここではセンターへ向けて話を持って行くそれが、良かったなと思っていた。


きちんと言うことは大切だと思っていて、それは不満の形でなく改善されて行く方へ話すことはできる。また、それを”変えられない事”として諦めるでもなく、「同じ立場としてその差は変でしょう?」という事を伝えるのは、正しいと私は感じている。

何かを「言える」という事は、必ず自分の自信に繋がっていると私は考えている。逆に言うと、何かが言える時というのは、何らかの自信がこの自分の内側にしっかりとある時、だと思っている。

一時の主人の弱さ、か細さを見てきた私としては、今とてもしっかりと自分の内側から張ってきたもので膨らみ始めているのを感じる。

エネルギーが自分の内側からジワジワと湧き出し、それに溜まりが出てくると少しずつ外へ使えるようになる。その燃料・意欲がまた外の関心を引っかけこの内に戻し…循環。関心事がなにか大きな成功に結び付く必要はなく、自分を動かしていく為の素材になればいいのだと思う。

枯れたようになっても、命が続いているときちんと湧き出すくらいの生命力を、人は持っているのだと思う。

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中年、更年期という所の進みにくさは、多くの人が今までと違う進み方を自然とさせられる方針転換みたいなもので。無意識で使えていた身体、エネルギーを考えながら使うようになったりする労りも加わる。今までのように使いっ放しでもOKと言うわけにはいかないことを目にしたりもする。

何年もの間、私自身も身体に感じた変化は、爪(の剥がれ)や皮膚(のかゆみや荒れ)、涙の感じ(違和感)や肩こりなど、考えた事もない様なものが少しずつ現れたりした…今でも表れるものもある。

主人の中にも内面的な、消極的になってしまう様なその状態があったと、私は感じていて、それを過ぎて今は「オレがこうしたい!」という思いをこちらに強く主張されたのを機に、その意欲はいつもいつも強い押切の形ではなく、所々で、主人の言動として現れていることで確認ができているように思う。


私の言動その意味の確認や、「これはどうして?」という疑問の投げかけ、家のこともほとんど関心を持たなかった状態から、関心を向けていることも今私が感じている。

「今で十分、これで良いじゃないか…」

一時は、今に十分感謝できる状態を持ち、そこに収まっていた。それは見方によってはとても美しく、どの様な状態にも感謝を向けられる、という態度でもあると同時に、そこに留まることも含んでいる。


もう大分前に、この部分には触れた記憶があるのだけど。

私たち夫婦は、そうある事を良しとし、目指して来たところもあった。それでも私が先に、「私はこれでは嫌だ」と先に主張し、当時の主人の「今で幸せ」という、在り方にズレがあることに触れた。

その時の私の中で予測できた通り、主人はきちんとそこから抜け出している。抜け出すための何かを学び、実践してきた訳でも誘導した訳でもない。主人が個人的に関心を持っている内容も、私の持つそれらとは全く重ならない、それでも。予測はできた、「いずれ抜ける」と。


それは、私自身が本心から「そうであって良い、十分幸せ」と感じている状態を体験し、それでも時の経過と共に自然とそこから抜けていく自分を経験していたから。私は主人への予測という形を、自分の結果という事からずらして考えているだけ。

人の進んで行く過程は、大まかに同じ。だから同じことがほぼ当てはまってくる。先から言ってくる人は、既に経験をされているから当人の”結果”として、”私”という人に予測・予言が出来ることになる。

今まで大した差もなく、主人と似たようなサイクルで、少し私が先に回っていることを活かして、”大丈夫だよ”と言ってきた。具体的なことをアレコレ言う必要もあまりない。一見主人より知っていることが多そうな私のそれも、ある意味では全く関係ない。

ただそういう循環で回っているものを、先に回ったものが後にそこへ入っていくものに、その”サイクル”として伝えられるだけ。

そこの部分に具体性は殆どいらない。

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言葉での表現は、どうしても補足が必要な部分があって、この内容は、「どういう状態でも、何もせずともそうなるから大丈夫だ」とは全く言っていないもの。

この手の話は、何かが終わり頃へ向かい小さくなっていくものがある状態があり、…静まり…、そしてそこから少しずつ増していくという様な強弱というのか、そう感じるものがまずそこにある。

終わりへ向かう向きでなく、どちらかと言えば真っ只中の力がそこにある時の「これで良い大丈夫」は、意味の違う空間で、まだそれがこれから膨らむ余白すら残っている状態。そこからは、書いたような流れにはならない。


だから、焦ったからといって、それがそうなる訳じゃない、と書くし、それはタイミングという時期・機会があっての話で、外が何かできるような状態じゃないものもある。それが殆どと言っていい。

それが自分の枠、その形の中に居る・あるという事なので、そう簡単に崩れるものじゃないということ。自分の形を簡単に壊せる人などあまりいない、それは今までの自分を否定することにもなる衝撃さえあるものだから。

その中で、外に起きた出来事をうまく活かして、また内外両方向を柔軟に行き来できる者なら、柔軟にその感覚を掴むことはできるかもしれない。


自分の意思より、そうある状態によって自然と動きが決まってしまう。それだけ自分のカタチ・パターンは強力。だから私は極力自分の中に摩擦を起こさないという在り方をしているけども、だからこそ、自分の意思を使って、行く先の方向づけをし続けること(人)、その実践の凄さを感じる事ができる。

それは、自分の中の抵抗を上回るパワーを持っている証拠であると思う。私は大してその力があるとは思っていないので、機会だけはよく見ている。

大きな力を使わずに、自分の中に現れた隙、違いに入り込むという事で幾らか、カバーをしているのだと思う。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!