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”他者を読む”のは技術と思う

自分の中にある「○○」というものは、やっぱり「言葉」と結んでいない状態のものがある、その”カタチ”で保存しているもの。

昨日は甲子の日で、朝の新規メガネに始まり、いつもの定期交換など色々を新しいものに替えた。一段落し、noteを書いていこうと座ると、、

(あれ…何かいつもと違う物を”この時期で交換する”と決めてたと思うんだけど…)

思い出されたのは、台所の引き出し(の映像)。その場へ行って引き出しを開ける…、すぐに分かった「あ、これだ(笑)」。鍋などに取りつける”取っ手”、使用中の物の着脱に力が要るように感じ始めたので、交換しようと決めていた。

その”物自体”という具体的なものを記憶しているのでなく、”そんな事があった”というコト、そしてその関連する”場所”。以前に書いたのは、「スポンと忘れた時は、その場に行ってみる」ということ。そこへ行くと、大体ちゃんと、脳がその現場から”関連する情報”を寄越してくれる(笑)

記憶の仕方というのは、それ自体でなくても良いと思う。

そしてそれは、脳の使われ方がその様になったからその様な記憶をしているのか、(機能的な)私の目的が「ソレが分かればよい」だから、ルートはどれにせよ、到達する手段を選ぶのかは分からないけど、私の用は実際に済んでいる。

”記憶の取り出し方”は、みんなが同じわけじゃないと思っている。

・・・

昨日のnoteの関連で書いていくのだけど、その中の冒頭に「詳細は引き出せないで放置…」としているのも、それが”ある”ことの周りから何か言葉を近づけて、なんとなく近い(感じがする)などの”記憶”をしている。

まったくその微かな、自分の意識の方ではしっかりと、まだ結び付けられていない状態の物は、その前の段階の「感じ」にアプローチしていくしかなく、あちこちから言葉を連ねて「あー、これだ」を求める。

パッと視えた(浮かんだ)それは、”感じ”だけが頼り。

「自分の主張はそのままで、でも相手への観察はしっかり続いている。”どういう事だろう…”、”こういう意味かな?”という相手への関心を持っている」

その様に昨朝メモした。

やっと思い出したのは、これ。これが”元”。言葉は”後付け”、頭に流れた後付けされた対象のコレを私は「等価、…」という解釈をしそのメモをした。


これで実感。
外側から内側へ角度を変えて近づいていくという手段もあると思うし、その形で到達もあるのかもしれないけども、内側のものは、”再びその内側に入ること”がやはりとても適確。この”再び”がなかなか意図的にできないから難しいと感じる。

やろうとすればできず、今回拾えたのも結局は、”湧いてきたものを”素直に拾い、そこから考えた時に「あー、そうだ」とはまった。同じ場所から観ればやはり早い、納得。

副産物をザッと上げてみると、”その場”を忘れた事により周り=外側からアプローチ。それによって外で使われる”言葉”の連なりが自然と行われ、その近辺の”別”展開が生まれる。

展開が生まれるという事は、到達できていなかった事により、方々の”目線”は持てたわけで、またそれを何かへ繋げて考えることができる。「元」へ近づけるならばこれは程ほどに、展開を楽しむならばそのままあちこちへと、それは自分の心地良い方への選択が「答え」。

そして”要”と感じたのは、この「ルート」が引き出せたこと。内側と外側と両方へ行き来して編んだ経路が動きから少し観える。

「そうそう、これだ…」というのは、何かどこか違うという自分の中の”感じ”を頼りに導かれていく。この自分の中の「気持ち悪さ」がそこへ行きたいという自分を引っ張ってくれる(ね)。

(これで自分の中をやっと一つ片づけた)

・・・ 

「書くこと」によって、自分の内側を外に露わにできて観測できるわけだけど。またそれを目にして自分を理解する「入力」で咀嚼していくのだけども。

この入力という処理は、”表側の自分”が働く状態で、読み取りと同時に「考え出して」しまっている事を否めない。私が出力/入力と切り替わりと表現するのは、機能が異なると私に認識されているから。

出力は思考されたものでなく、そのまま湧き出した(押し出されてきた)状態のもので、また入力は、読み取るという自分の中に収めていく為の咀嚼(解釈)が働いてしまい、「同じこと」を見ている、焦点はそこに持っているはずなのに、層が違うというのか、それに伴い世界線が替わってしまうように思えた。

同じことを観ている(見ている)はずなのに…

これは本当に意味がとても深い。実際にそれを感じとっているのは、思考側ではなく、内側の”その場”からだから…表現が適当かちょっと分からない。

私は今これを、「読みながら」出力しているものだから(笑)


この出力/入力のことに集中しだしてから、すぐに結びついていたことがあって。

無意識で行われた出力の状態があって、人はそれを様々なカタチで”入力”して読み込むわけで。私が自分自身という「一人自分」の行いとしてもその捉え方を変えるというのに、他者がこの”出力”を一度で同じに寄せることは難しい、誰にとってもの話。

この意味は、普段は「受け取り次第」という読む側の解釈によってすべて変わる、という表現をしているのだけども、状態はそうであるのだけど、「読む」という誰もにとって入力の状態が勝手に機能することにおいては、これはもう、「技術」という表現をしたくなる。

それほど、「入力という行為自体が”自分”になってしまうもの、他者を見ているようで全く見ることができない状態がある」ということ。それを他者を他者として見るためには、そこにかなりの技術というものが必要なレベルだ、ということ。


自他が混じってしまうのは、入力機能自体がこの「自分仕様」だから。それが普通で、だから読み取りには技術がいる、という事だと思った。

そんなこと考えないもんね…、だって自分はきちんと相手を”相手”としてそれを読み、解釈しているのだから。だけどそれを処理するのは、個の様々なフィルターを通して入ってきている。

数日前、本格的に夏が来る前にエアコンのフィルター掃除を済ませた。ワン達がいるため、1階のエアコンはずっと稼働状態になる。

フィルター掃除すると風の通りが良くなるのよね。

現実で実行すると、結構自分の中の何かが連動するから、私はどこかそれを頭に引っかけている。

その後に起きてくることの風通しが多分違うのよね(*^^*)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!