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距離が空いて見えてくる

”初めの認識”が表面的だった、という表現から、そちらの方が「偽り」だったのでは、という確信に近くなった。

それを前提にすると、今までに反対方向から観える捉えられるものを、”逆に言えば”などの表現をしてきたけど、それが本来かどうかは別として、現在における私の中の「矢印の方向」だという考えに至る。

11/5 重なる情報はヒントに うみのみか より


昨日の記事の一部だけども、特に”この辺り”から書いてみます(この表現の説明は後に)

今までに当然のように、当たり前に適用してきた「向き」というものが、人にはある様に思う。そんな事を日常で私たちは意識することなど、まずないと思うけど。

だけど恐らく、私たちは何かに対し(?)、方向・方角をいつの間にか分かっていて、それを疑うことなく元に進捗してくるのだけど、いや進むのはその方向でも良いのだけども、考えとか、在り方とか、→→→の向きのまま来たけど、”ある動作・行動の結果”を自分に返してみたら「あれ~?」って、初めの認識へ近づけようとしていたけども…アレレ~~?という事に気づいてしまったりする。「違うかもしれない」と。


暗黙のうちに、基準にしたもの(最初の入力)があって、それに沿うような結果を自分の中に戻ることを「正解」と感じてしまう。本当にそうかもしれないことも含むため、すべてがダメな訳じゃない。まずは今までより「行い」に意識を持つようにする。行いによって必ず何某かの”結果”は入ってくるので、それを”自分へ”回してあげるということ。

それを今回の私の脳内では「逆だ」という風に表現した。

(当初の)入力されている内容が、自然と修正されていくような感覚になる、「行い」が主の考え方。フィードバックされた結果が「主」ですよ、という主の位置をそもそも書き換えてしまう様な話。


この内容自体は、今までにも”聞き覚えがある”と感じる人もいると思う。『コトを行う→結果を受け取る→また出力(動作)』という事は何度も書いているから。事の仕組みは、サイズを変え場所を変えての「応用」ばかりなので。それが抽象的な捉え方であり、”共通で括る”という事でもあるので、珍しいことなどはあまりない。

その”コト”を変えてのくり返しが、”仕組み自体のくり返し”を重ね続けることとなり、コトの時点では見えていなかった何かが、閾値を超えてポツっと見え出すように現われてくるように思う。

小さなサイクルを回し続け、何の効果も得られていないと思っているのは、自覚側の「小さな自分だけ」ということになる。

小さな自分が行い続けない限り、大きな自分の動きに目覚めることはない。

《この辺り》
全体をふら~っと読んでいる時に浮かぶ、脳のそこに視えるものから掴んでいるので、「ソレ」という直接の具体的な”もの”がある訳ではなく、読んでいる中で脳内に浮かび始めるのが、「その辺りが強い」という事から、それを入り口にして書き出していく、という意味でした。

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これですね。
いつもの様に更に補足すると。

今までを「逆」と感じる位置に自分(私)が居ることによる表現(ヒョーゲン)になっています。今まで”その状態”に事実ある時というのは、自分自身では一体化しているので”分からない”。

それが「逆に」見え出す時というのは、今までと反対側に少なくともそれ迄と距離が出ていることを示しているもので、「客観」できる場所に居る、という事になる。

その、今までと違う場所に意識が立った時、当然今までとは違う見え方が出てくるので、言語にされることも変わってくる、という流れになります。


本当に、「脳」というのはすごいのね。
上記の、書きます予告した内容の前に、私は主人との会話から思い出した過去の事を、忘れないうちに先にこちらを書いておいた―――、「逆」の話をしっかり書いているんだよね(*^^*) 今とにかく「逆」が集まりだした。

違うこと、「行動」をすると、違うモノを目にする。

そんな事はよくある。そしてよくあるどころか、その”入り口”を変えたお陰で、見える世界”脳内が”、その世界を「よく見よう」とする事による注意力からそうなる。気がつかないことに気がついてしまったりするもの。

昔書いたけども、「順路」をいつもの習慣と変えることで、その場ではその習慣は壊されるので、意識を使って行動しないと「いつもの簡単な結果」さえ手に入れることができないと知ることができる。

パターン化されたルーティン。12345という順序、いつもの無意識の行動を「54321」の順で行うことの”難しさ”がある。それは「あれ、忘れてた…」というこぼれによって気づく。

難易度を感じる必要のない普段の動作は、無意識でパターン化されている事から行えていること。それが逆になるだけで、意外にも私たちは出来なくなってしまう。

無意識化されていることの全てを意識上へ戻すこと自体は「無意味・エネルギーの浪費」。その仕組みを知り必要に応じて活用すればいい事として書いてみた(*^^*)

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もう1つ追加。

ニコルのクセが激しくて気になっていた近頃。「食」が絡むと興奮が収まらず、グルグル回り続けて落ち着きがなくなる。

数日前にふと、「同じ回転しかしていない」と気づき、ある場所を右回りに回り続ける動作の一か所で私の手を伸ばしておいた、遮るために。

突破することなくUターン、そのまま左回転…にはならず、ある同じ場所で引き返し、私の手との間を”往復”に変わった。

(左回転をしない…)
この子に関してはそう思った。その回転が続く事で、更に動作を助長させてしまう為、黙って手を出しておき、後に諦めて近くで伏せ、他の子がご飯を食べ終わるのを待っている。(この一度で”治る”のではなく、反応がもう少し弱くなるまではくり返しが必要と思っている)

台所でワン達のご飯の用意をしている時、足元をグルグル回る子がいて、ニコルかと思ったらピースだった先日。「この子も右回りか…」と思った。

ピースは食への欲があまり強くなく、この時は朝ご飯を食べなかったのでお腹が空いてのことと思う。(食に対してグルグル回転するほど興奮する子ではない)

2匹の右回転を思った時、”ミルクは…?”と回想。この子は、かなり小さなその場での左・右それぞれの回転を見事にする(笑)ライトくんは…、大人しくして待ってます。


興奮しやすい子は、きっかけによりスイッチが作動すると、動作が始まり、その動作がまた脳内の興奮を助けてしまうので、遮断しない限り勝手に止まったりしない。

何かのきっかけ(別にコマンドを出すなど)、こちらから異なる刺激を与えることで、先ほどの”熱”が他へ切り替わる。放置して良いものと、過剰になり過ぎるものへの注意判断は、こちらがするものと思っている。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!