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今日はツギハギぶぎ

何か初めてのことを行っていく時、一先ず「簡単な・最低限の」所から入って行く。これ当たり前に普通のこと。

いきなり高度なテクニックは必要がない事と、また”簡単”という印象によって、「やってみる」というまずは突破を目指すものだから。

慣れて習慣になって、その動作は当たり前になっていく。

次に、人が求めるのはどういう事だろうか?

便利・高機能など、使いやすさを考える。

「使える」という事のままで、その先があることに気づかない事も多い私たち。習慣にするとその動作は当たり前になり、特に不自由も感じないから。

だけど、ちょっと外を見てみると、その利用の仕方が違かったり、とても詳細に使いこなしていたりと、”活用の仕方”は様々になっていると知る。

(あるコミュニティで)去年Twitterが盛んに行われるようになった時の事を、私自身が思い出していた。

「まずは使ってみる」

という形から入った、SNSに不安に思う人達もたくさんいた事を懐かしく思った。

慣れたら次へ進んで行くことで「進歩・成長」していく。しっかりとそういう段階へ移行していることが流れを見ていて知ることが出来る。



興味のあるなしに大きく関わるため、進度というのはいつだってまちまち。

だから、アドバイスする側もそれのどの”ゾーン”を見て説明しているかによって、自分に合う(合っていない)も変わってしまう。

そして更に、そのゾーンが全体的に一段階をクリアしているとみれば、次の段階へとコマを進めていくため、「前と言ってる事が違う」なんて事も、あるかもしれない。

コトというのはいつも動いていて、私達が時を止めなければそこに留まることはない。ゆるやかな流れに乗っていける柔軟性も時には必要。

私たちは、決して同じ景色を見ていない。

だから、他者の行いによって刺激を受け取って活かしたらいいね。


今日は、よそ見し過ぎて頭がここにいない状態で残りを書いて行きます(笑)

はて、さて。

中途半端になったので、継ぎはぎでいきます。

・・・

これは以前、ある人とSNS上でやり取りをした時の話。

その時その人は、「お金を出してもらって申し訳ない…」という謙虚な姿勢を示していた。だけど私の考えは全くそんな事がなかったので、(大体)この様に発言した。

「お金のある人はお金を出していい。それが”出来ること”。皆それぞれに”得意”なことは異なるのだから、引け目に感じる必要がない。あなたの様な技術をその人は持っていない。そしてお金を持っていてもこの、”人”が集まらなければお金を使う事も、そこに意味もないよ…」

誰もが必要に感じ、その価値を高く見るお金。

私だってたくさんあったら良いと思う。だけど、その価値が一番高く、それを持っている人が優れているということは、全く思った事がない。それぞれの出来ること、その役割ともいうべき分担が、人にはなされている様に私は感じている。

それによってコミュニティが成立したり、”社会”という形が成り立つ。

特定の何か、が価値が高いのではなく、できない誰かにとって出来る誰かの価値は非常に高くなる、というのはお金以外でも同じことと思っている。

そしてその得意のバラバラがあるから、「個」が活きるし、活躍の場面があるのだと思っている。さらにその個によって「出来ること」というのは、自分のしたいと思っている事よりも意外と「あれ、できるかも…」の類だったりもするし、自分の場が合っている時は、それは自然と行われ現れているものだと思っている。

”居る場所”はだから大切。

そういう”質”を持って生まれてくる人もいるから、比較は無用。

・・・

「変わっている」ということ。

祖母に「あんたは変わってるね」と言われたのを憶えている。昔から結構素直に「そうなんだ」と思う人で、そのままその様に吸収した「私、変わってるんだ」と。

それを苦しく思った事は取りあえずなくて、寧ろそれが私の”前提”になってくれて、そこからモノコトを考えるようになった所がある様に思う。

「私」としての考え方は、結構はっきりと持っている事が多い。先日の”分からない”事に関してはもう分からないので、それ以外の所の話。

そして、自分のその前提があるから、自分の中に大きくは”基準が2本”必要になった。そこを1つにしようという頭は一度もなく自然なことだった。

私の考えはコレ、世間一般的にはこれ。

その様に考えることが多く、大体自分と切り離した。私にとってこれは結構重要だったと思っている。世間の基準を自分の軸にしたのでなく、あくまでも分けて持っていたので”一体”となることは軽減されたかもしれない。


もちろん、この”負の側面”というものもあって、私自身は負とは思わないけども、状況によって”世間一般的”を表に出して考えることをする為、この時「私」という存在は隠れ気味になる、ということ。

私は、(全てではないけど)他者の「個」の際立ちを目にした時、素敵だなと感じるのに、私自身はどうだろう?と少し思ったりする―――。

あ、十分「私」がダダ洩れているなら失礼(笑)

顕れていないと思っているのは、自分だけで、十分言動に表れているのが、人だよねぇ…(*^^*)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!