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行動の結果はデータ

寒けりゃ身体が強ばり動きたくない
暑けりゃ暑くて動きたくない・・・

丁度いいトコロでしか動こうとしない性質を持っていて、その区間でしかいつも動かないという事は、両端は未知ばかり…、という事だね。

音声で話した”怠け”。
あるものはあって仕方ないけど、自分の中にそれがある事は逃さないこと、だよね(*^^*)

・・・

『うん…。それやるとキリなくてさ』

簡単に食べられるものを買って置いておく。インスタントでも特に抵抗がないのだけど、私は食べるために買っておくのであって、基本的に”買っておけば(何かの時に)”的な考えを持っていない。それに助かるシーンがある事も分かっているけども。

『あれば食べる。分かってる。便利だもん(笑)でも”いつも”はやりたくないね…』

主人が買い物時に勧めてくれたんだけど、主人に返事をしながら自分がその言葉を聴いていた。

⦅そうか…⦆

少し安心した。怠惰な方向にだけ進んでしまう自分を、止めてくれる自分が大きくなったなと。
(先日のメモより)

・・・ ・・・ ・・・

よく言う”状態がある”という表現。
今回もまた使っていくのだけども。

まず簡単に上記の話の中に少し下りてみると、”そちら”にいる事、流れていく事はとても簡単で、労力も思考することも不要なんだよね。だから自分にとって負担・負荷がかからず済むから「楽ちん」。

私は以前、そちら側を実践している期間があって、それ迄の過去の自分の傾きをそれによって幾らかバランスさせたと思っている。そしてその時はこの”反対側”に偏った状態に注力しているので、「それでいい」と思っている。事実、それで良いとその区間においては思う。


こうしなければならない、という自分への強制がそれによって緩められると、無駄に「しなければならない」所に使っていたエネルギーも外へ散っていくのではなく、自分の中で溜める(自分に注げる)というイメージがある。

その区間(期間)に、しっかり自分にエネルギーを少しずつでも蓄え続けてくるから「次」の区間が見えてくる。”その状態”がやってくるのだと思う。

エネルギー不足の時には結果ウンヌンのレベルでなく、”やる”こと自体が消耗なわけで、また走れる状態を作る期間として「楽」な状態の割合が多くても良いと考えている。

自分に力があると、自然に外へ向けた何某かの意欲は湧き出るものなので、「やらなければ…」と考える時間(エネルギー)より、「やろう」と身体に伝えて実行するコト(エネルギー)に替わっていくのだと思う。


動作・行動になっている人、その動きを見て「エネルギッシュだなぁ」と無意識に感じるのは、この身体を動かすことに力の要ることを、見る側がしっかりと分かっているから。冒頭の2行は物語る。

私たちは身体を動かすことに、どこか”苦労”を感じている部分があるかもしれない。だから”やる気”という気力だけで動かしていくのはかなり力がいる事と思う。氣で動かすにはそれだけ身体は重い。

私は、その”状態”を活かすことを基本に考えていて、基本的には無理をしないスタンスをとるものの、それでも小さなきっかけ、動きをとる事で、まったく違う世界が運ばれてくる事はよくある。その話を以下に。


一昨日の朝私は、寝起きからの頭重と身体の重さで「ゆったり目に過ごす」と決めて一日をスタートさせた。生理絡みのことで、数日間はこの感じで…なんて思っていた。

朝食を食べた後、頭重がほぼ消えている事に気づき、「糖不足か?」と浮かぶ。その前日の晩は、おかずだけでご飯は食べなかったことも一応軽く思い出した。

頭重がないだけで感じ方は大きく異なってくる。腹はまだ痛い訳じゃなく、身体のだるさはあるけども、少し動く方が”結果的に楽”な事が多いのも経験上分かっていた。


雨降りを利用してワン散歩がサボれると思っていた朝、昼頃にはしっかり晴れて散歩は決行。一時は「雨止んじゃった…」とさえ思った。実際の散歩では、湿度を感じる空気の感じと雨上がりの気持ち良い空が「散歩できて良かった」に既に変わっていた。

帰宅してワン達をケージに入れる頃には”次”の動きを考え出している…。玄関掃除にしようか、サンルーム?今日は軽く床の予定だけど…。

動ける”状態がある”だけで、勝手に次々やれること、その候補が浮かんでくる、まずこの「選択肢の幅」は憶えておきたい。

ただ一応今の身体の状態は無視せずに、自分の中では「この位に押さえておこう」という所で少しずつ着手。結果的に片付けは勝手に進み、普段の掃除が終わる頃には、肩などに大分疲労を感じて今度は”夕寝は必須!”状態に。かなり没頭した片付けとなった。その後はしっかり眠って夜の食事より先に、まったりの入浴を優先にした―――。


一日を振り返った時、「動かなくちゃ分からないなぁ…」と思ったし、「動いたから予定から違う結果を得た」とも思った。

怠けかどうかは脇に置いといて、その”いつもの範囲”の外に行った時だけ「思ったより…」の結果が得られる。当然ながら”思う”のは知っている範囲でしかないものだから。知らないものについては何も湧かないし、思うことすらない。

予測がつくというのは、知っている範囲の中の動作という事になる。主人がココアを爆発させたのも、自分の中では今までにない”作り方”をして、やってみたからソレという結果が得られた。


冗談抜きで、主人は「昔は飲んでいたけど今、ココア飲めるかな…」という気持ちもあった中で、小さな挑戦をしたと思っている(笑)主人のこの”小さな”は現在、ポチポチ観ることができて、それこそ、”溜ってきた”のだろうと観ている。

主人にとって、この程度の様々な挑戦は、私から見るとかなり頑張っていると思う。それ程今まで「自分」の決めたものに収まってきた人だから。

私自身の時も、主人自身も、「(何かを)やらなくちゃ・やろう」なんて大して思っていない。ただソレが”自然と現れる状態が今ある”という事だろうと感じている。それをサポートするのは各々の顕在側の”自分”だし、少し拡げて同じ立場の“意味”になるのは、「自分以外の他者」だろうと思う。

その時、”この時”を活かしてアレやってみようかな、コレはどうかな…などの候補が自然と上がってくる。いつも見えないモノが勝手に目につく柔らかな状態になっている。


その動いた結果は、自分の思い通りばかりではないかもしれないけども、だから動いた結果、「実動」なんだと思う。そしてそれは新しい区域で起こってくる現象と私は思っていて、主人の最近は「そんな事」をチビチビ繰り返している様に私は感じている。

「あれ…、今までそうやって来たんだけど…」

極端に言えば、次々に”外してしまう”ような事が少し続くことはある。表現の仕方はどの様でも良いけども、今までと違う自分が対応しているとか、今までと違う場所(空間)にいるとか。とにかく「今まで」ではない○○を体験しているのだと、(そういう事について)私は思っている。


「そこに居る(そういう状態にある)」という事が自分に理解できた時、何か次の行いを冷静にみることはできるし、本人にとってそれはやってみないと分からないこと。

自分で「分かる」のは、必ずあと。

私は、スイスイ掃除に没頭した次の日の昨日、身体は怠くないものの、生理の重さは身体を通してしっかりと感じる日に。掃除のない昨日は、それだけで開放的な日だけども、身体的に「そう」とは限らない身体の無言の”主張”。

一定だけでは決して分からない、変動がある事で自分の揺れ幅もいくらか感じる様になってくる。

・・・

私の話から途中、主人の話に「同じコト」、事象でつなげて書きました。そしてそれに対して私の考えを書いて再び”私”に戻って長くなったので今回は終わります。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!