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全てメモから。

本来私たちは、「個」としての別ものとして生きているのにそれは”当たり前”の上に立ち、表面での違い(主張)で、「別」を現わすようになった。

生き物の個体は忘れ、でもどこかできっと分かっているから、”同じ”世界の中で個を主張し始めた。

表現・言葉。

鑑賞を超えればそれはまた、別ものにカタチは変わり、”生き物ーー人”というこの存在は人が進歩するほどに、本来を置き去りにする。

「どこかでは知っている」事に被せ続けるから、遠い所では知っているから、表面で差をつけたい。

そう考えると、とことん人は「逆」をやっている。逆にしか向かっていない、と思える。

んーー…。

まだ言葉にならなかったモヤが心で少し止まっているのを感じた。

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『理由』と書くと大袈裟だけど。

シンクロが多発したら、「人側」として考えると何が見えてくるか。

「深層ではみな繋がっているから…」「本来、一つ」という理屈を少し置いといて、湧く言葉を綴ると、、、

「シンクロ」という言葉、その意味から離れた”分かる”↓↓↓

【思った・考えた事外】

という事は?

これを表現するのは各自で(笑)、とすると理解しやすい。


昔、触れたのだけども、

「その”言葉”を知らなかったら、あなたはソレをどう表現しますか?」というもの。どのようにそれに言葉をつけるのか、という事。

沢山の事象を表す言葉がある。そしてそれら言葉はいつの間にか、その意味だけでなく、そこに対した周囲のもの(エピソード的)なども引っ付いて”生きている”。


それを活用する私たち人はいつしか、その周囲の方が魅力的に感じ、それらを自然と無意識がチョイスしているかもしれない。

だから、”使う言葉でその人が分かる”という。

言葉は生きている。

というきっと本来の意味は、言葉自体にある響き、『霊(タマ)』だったのだろうと、個人的には感じている。現代では使われ方によって”生きている”と、”ココ”という所から、本来の響きを変えてしまっている、と少し残念な気もしながらーーー。


シンクロという言葉に感じる魅力、抱える不思議さは、この言葉が抱えているものの中に、ちょっと特別なモノ・コトを感じるから。

この言葉が存在していなかったら、【  】の現象だけを見続けていたら。そこに「思と考」の外在化(←一般的意味で使用)という事に薄々気づく。(これは、いくらかでも、思考の現実化とか、自分が創り出している、という事を知っている事からの影響、と解る事だけれども)


それが、言葉に囚われる事なく、事象の中に入り込んだ時、視えてくるのがそれで。更にそれは、気づく側の自分が、普段は気付けぬ隠れた自分のする事、として観るような感覚が少し漂ってくる。

その程度の感覚だもの、それは「そんなこと思っていない」も、意味の上では含まれて来て、顕現したのは”状態”という響き。

冷めて言うと、寄せるも何もない、となる。状態が外と合ってしまう、という表現を何度かしてきている通り。


不思議!という入り口から一段、また一段と、少しずつ掘れるようになってきた。

私は初めの「不思議!」という反応を楽しみたいと思いつつ、いつかは慣れてしまうのか、という思いも今は両方抱えている。

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以下はメモでなく上記したものに感じた事を。

意識できていないから、「無意識」と言う訳で、この今朝のメモは、今日の朝記事の内容と背後でもの凄く繋がった流れからの”メモ”という事が判る。

朝一の記事は100%前日書きで、これは眠る前に書き上げたもの。

睡眠を挟んで、「こういう事を書いた」と、しっかりと覚えていない私のアタマ(意識側)にとって、ツラツラと湧いてきた事をメモしただけの事だけども、これが、意識側から一旦離して(放して)の、後に上がるミクスチャーという感じ。

意識から外れているから、関連する事、普段では思いつかない結び方(観え方)などを引っ張ってきている事をジワジワやっと感じさせてくれる。

潜らせたものは、直ぐには結びつかないし、そこをくぐらせるから知れる事がある。


追)これは、私が「殆ど、他を自分の投影として捉えた事がない」と書いた事を、これでもですか?どうですか?という、いつもと違う観方として、教えてもらったように思います。

言葉にギュッとフォーカスして捉え、解ったらしぼりは緩めて。言葉に引っ付いたままにならないなど、動かしているコトは、超~沢山あります。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!