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自信を揺らせ

2/1メモ

”迷う事”は非常に大切。

これは、自分へ問い続けて、自身を、自ら揺さぶりをかける、という事と同じ。

「迷わせてもらえる」という事は、その中から”自分で決めて良い”、という結論に至ったのが、私の迷いからの脱却だった。

その、「決めて良い」には、深さも伴い、ただ自由に好き勝手で良い、という事も含みつつ、本質は「その結果は自分で受容する」という事。

最終、何をしてもかまわないという事を、肚の奥深くに持っている。

但し、それの結果を受容れる覚悟をもって、という事。

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私の中では昔、外の情報を散々見て、「一体、何が正しいのか??」分からなくなり、迷いに迷った経験がある。

その時って、やっぱり苦しいんだよね。

でも簡単に、簡潔に言ってしまうと、自分の「外に正解はない」という事と同時に、「唯一の正解などない」という事。


ここに拘り、この周りをグルグル回り続ける限り、同じ場所を事を変えて何度も、永遠に続けることになる執着、輪廻。

例えば何か事象やモノコトからの距離をとる、という事は、見えない”そういう所”にも言えるのではないか?と思う。

見えていないソレというものから離れてみるという事は、客観ができるわけで、そこでただ”観察”と言う目線を使う。


そのモードの時、ジャッジも何もないはず。もし出るならば、それは客観視していない、モノコトを観ていない、記憶の再生、輪廻。”自分”を通したモノの見方をしている状態。

・・・

まずそもそも。

何故、”迷う”のか。確信しているモノ(コト)に対して迷う事などない事は分かる事。様々な理由でまず、”自信”がない、という事。

そしてこれが殆ど。「正しい」と思われる事にくっつこうとする行い、という事。

私達は「正しい行いをする事」を教わり、その様にする事に忠実になっている。その在り方は私は「そうだろう」と肯定するし、そうあろうともする。


ただやっぱり、

「ちょ、待てよ?」それは正しいでなく、あくまでも”私”の考え方・在り方で、「正しい」訳でもなく、でも自分では「正しい※と思っている」という事が観えてくる。

何を、どうして、ソレというものを「正しい」と思う様になったのか。それは個々における積み重ねからの”顕れ”であって、表面側で一律に揃ってしまうものではない事。

だから、バラけてしまう。

私達は大体、地表に現れている表面のせいぜい左右位しか見ていない。表面に現れるまでの積み重ねで表側にコトが現れる事は一切加味されない…。


(私で言えば)自分の中に「解」は持つけれど、それを口にする事は少なくもなる。それを主張したい訳でもないし、世間とは全く違う”解”を放ち、白けるのもあまり好きでない。

殆どがそんな中でも、あまり尾ひれがつかずに済むものは、そのまま”自分”として発してみたりと、段々「自分」というスタイルが出来上がった。

その「自分」である事によって周囲に起きてくる事象があるならば、それは受容れる、という話。


※人は「正しい事」を行おうとする事は自然で、その様な行いを意識せずとも選び、その事は悪い事ではない。人によって「正しい」事が全く異なり、前提にする事も、ジャッジの仕方も、切り取る部分も何もかも組み合わせが違う。そんな事が念頭にある。

だから、考え過ぎると結局、「自分として」の在り方になる。


(今日はこのままこの話を続けてしまいます)

で、自分で決めて良い、「自分である事」と言うのは、例えば、世間で目にする有名人が、素直にエッジを立てて活躍しているのを見て、”同様に”捉え易いけども、それは一括りには出来ないものもあるだろう、と思う。


他者の諸々の事を、真剣に考える人ばかりじゃない、という事。ただそれは悪気があるでもなく、「そういう神経の人」がいて、簡単にマネできる事でもない。

対して、同じくエッジが立っていても、他者にも配慮をしながら、自分自身も守り(労り)ながら、”そうある人”もいる訳で、前者とは全く神経の使い方が違う。


内面からの事を考え出したらキリがない話で、どこかで”詰まって”しまえば、結局”自分で決めるしかない”、と私は感じてしまう。

私の中では、「何に決めるか」という事よりも、「受止め方」の方に比率を高く持っている。

始めの部分をガッチリ決めるという事は、それだけ硬く絞ったという事を感じる。

度量が必要な考え方は、私個人の拘りでもある。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!