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お利口へのみち?

ワンの動きを見て学ぶ事は今までも本当に数多くあった。

人のように詳細な思考はしない、頭の働かせ方は違うので同じにはしないけども、動物的な「行動」に関しては、十分参考にしている。


習慣の動物、犬。
一応前置きとして少し書いておくと、我が家は4頭のトイプードルがいてオス4・メス1で、ワン達の幾つかのエピソードを書いていきます。そして”全体”として観えてくるものは…?
※話はすべて私の目線です

・・・

家に来た時点でトイレの躾は必須で、当然トレーニングをする。散歩で外へ行けばもちろん気持ち良くし、家では大体自分の決まった場所で排泄はされる。

少し前にも、また今までにも何度か「その様なこと」を不定期に起こしている様にこちらは感じていて、だから人は”学習し”、粗相をさせない様に先に誘導する…ようになる。

トイレの場所は、ピースだけ完全に自分の場所で、それは”この子が選んだしやすい場所”としてそこをトイレとして残し続けている。元々はピースがパピーの頃のケージ場所。


ピースの粗相は看過できなくて一か所でジャーッとするのでなく我慢し、でもできず…と色々が本人の中であるのだろうけど、歩きながらあちこちでやりまくってしまう。

それから暫くは、いつも彼が家でオシッコをするタイミング近辺でこちらが声掛けし、排泄を誘導していた。

「もう大丈夫かな…」という判断は、彼が「自分でトイレに行く動作を何度か重ねて確認できること」で、まだそれが表れていない状態だった。

ある日台所に立ちながら目線をワン達に向けると、静かに座っているピース、その目線の先はミルク♀の動きをジーッと見ているように、私からは見えていた。

この時何も分からず、「かわいいな…お姉ちゃんの動作観て、色々憶えるんだろうなぁ」、と微笑ましく見ていた―――

あぁいう時、何を考えてるんだろうか、静かな時(いつもと動作が違う時)って学んでいるよな…なんて思ってずっと見ているうちに、ミルクはいつもの自分の場所でオシッコをしていた。


その時私はオシリを拭きにすぐにはいかず、台所から手を止めずに見続けていたと思うのだけども、既に使っていて匂いが付いている、囲いにかけたタオルの匂いをピースが嗅いで、そこで足を上げてしようとする動作にビックリした。

『コラーーー、ダメ』

すぐにピースのいつもの場所に”ワンツー”の声掛け・誘導でオシッコを促して失敗は防げた・・・、のだけども。


この動作一連を観て感じた、「いつも”何も考えずにやっていた事”は普通にできるのに、考え始めたら出来なくなる…難しくなるんだな」と。この時のメモは以下に。先に書いておくと、これはまともに解釈をしたら「逆でしょう」となる。

”自分”が分からない(状態)のが、思考状態の”私”で、一番分かっているのが無思考(状態)の身体自身(の私)。ピースの動作を観ていて―――。
自分が遠いーー近い(それ)、「分からない」の中には、やっていた(きた)ことを、バラバラにしてみたら、まったく分からなくなった、と言うこと。ゲシュタルト、組み立て、塊

(メモ帳より)

これはこの少し前に確か、私の父の水道のレバーの話を記事で書いていたと思うのだけども、それと関連した目線になっている事もわかる。考え出すと”組み合わせ”が難しくなる、というものが一時的にあり、今まで何も考えずにいた所を、真似して少し”考える”というお利口の域にピースがいる、と私はそう思った。

”今までの状態”からはみ出して、何かをしようとした時、考えてやってみようとした時。いきなり良い結果にはならない事もあるだろうという最高の事例。これ以外にも主人との間で主人を通したコトも観ていた為、観察現象は集中して起こっていたのを、私は観測していた。

良かったんだ、それまでは(笑)


声掛けで誘導する状態は続いていて、個々のリズムは大体決まっているので難しい事ではない、のだけども。主人がいたその日は、私がいつものリズムから外れた…ワン達のご飯後に声掛けをしていなかった…と悔やんだ。

もう既にワン達を寝かせる、部屋の消灯前のこと。狭い家だけど、端から端までと言って良いほど、そして自分のトイレを通過して最後は台所にいた主人の足元で完全に出し切ってオシッコだまりを二つ。

『コラッ!!』

オシッコが終わり、剥がせるカーペットは部分的に剥がし、大物などは翌日の洗濯へ回し、その間のポタポタだらけの敷物を拭きながら怒ってた。叱れないからだ。


ワン達を寝かすと言うことは、「これから書く~♡」という喜びを控えている時間。なんでこの時にこんな事をしなくちゃいけないんだ!という強い怒りがあった。

「別に、トイレシートで吸えばそれで良いんじゃないの?」

主人の感覚はそう。
その後の匂い、そこで生活する私…、

『そういう訳にはいかないわよ』

他人事だと思って(!)、自分の中に湧く思いとぶつけようのない怒りとで一杯だった。掃除を終え「すべて私が自分の中で処理して行くこと」と分かっていても感情ってすごいな…という状態の中にいた。

それ以降、今まで以上に誘導に気をつけ、失敗させたくなかった―――、翌晩。

ワン達のお世話も終わり、既に部屋は消灯して書くためにPC前に座っていた。

”ジャーーーッ”

⦅え?⦆

隣りでライトが普通にオシッコをしている。おいおいおい!どこでやってんだよ…、フリーでなくケージに入れた。

排泄の躾が既に入っているワンに、わざわざ誘導はしない。だけどライトもごくたまにこういう事があるので、翌日から声を軽くかけた。当然きちんと出来る。


でもそれが。
多頭であること、出る・出ないのタイミングがあること、などが重なると途端にメチャクチャな事になっていく。

いつだかニコルの食事時のグルグル右回転の話を書いているのだけども、それ以降、ニコルには昔のように様々なシーンでコマンドを出している。彼は考えることが割合に多い子とみえて、効果はてき面、”食べる”為なら完璧に効く。

元々は躾でしっかりとコマンドを出していたので、ライトも慣れている。ライトに出してそこへ誘導する事が、近くで聞いているピースが反応してトイレ近辺でクルクル回り始めて…と、そうして欲しい方に効かず、トイレに距離のあるその間を何度か移動しまくり翻弄され…、てんやわんやになってしまった。

⦅朝から疲れる…⦆

ギューーッと事象が重なってくるとしっかり観えてくる”自分”。「失敗させたくない」んだよね。

・・・ ・・・ ・・・

『結局さ、ワン達にきちんと躾もしてきたと思ってるだけで、失敗してるんだよね私(笑)』

いつだか主人にポロっと言った。

初めてワンを飼い始める時、本などの情報からトイプーの性質、注意点などを学んでその様に躾け、パテラ(膝蓋骨脱臼)予防のために欠かせない敷物も敷きまくり、そういう対応を全てやって来た。それが後になるほどコマンドなどは殆どせずに、自由にさせ放題なのが末っ子ピースだった。


何頭も飼ううちに私は、「犬の自由が大切」と言うことに考えは完全に傾き、そう考えればそれはとてもステキな様に思えるけども、とんでもない。私はそうして”サボった”と言うことを今、色々と確認していると認めた。

昔の情報通りの躾の仕方が全て正しいとは思わないけども、教えなければ本能的な犬は、ニコルの様な殆ど躾なしでもやれる子と違って、”そのまま”が占めてしまう・・・、ピースを観ていてそう思う。

それがもちろん、私が”それで良い”と思った結果であって、今は亡きバズの時のように、一つ一つ対応していた事をほぼせずにやって来たという所を自身の行いの結果として捉えている。

そういう自分の諸々を認めた上で、仕切り直し、「私の在り方をきちんとしよう」と思ったことに至る。


会話でやり取りしない人と犬。擦り合わせも何もない。私は犬たちに対して、(犬が理解できるかどうかは別として)厳しい言葉を使っている割には、ワン達から見える動作「在り方」は全く甘かったんだろうと思った。

完全な私という”人”の勘違い。人目線で躾もしっかりしているし、対応もきちんとしていると今まで思っていたから笑える。自信があるものほど「更新」がされていないかもしれない、今まで疑ってこなかったから。

私は人だから、発している言葉が自分に聞こえてくるから「私はちゃんとやってる」と思っていた。ゲシュタルトが崩れたお陰で、これもまた違う面が見えるようになった事の一つと思っている。


考えてみれば、ワン達が判断するのは最終的にはこちらの動作部分であって「在り方」。言葉の理解でないのだからこれを見て”判断”する事になる。その動作が、例えば”おいしいものが出てくる”という結果を見ればそれが彼らの事実であって、私の言葉などハッキリ言って意味不明な”補足”でしかない。

そう考え直し、私自身の在り方を見せなければいけないと思った。

・・・

これは。
この「在り方」に行きついた時。

今までは「自分が見る自分の在り方」だった事が理解できた。それがここでは、”他”からこの在り方がどう見えるかと言うことに視点が移っている事が分かる。

そしてそう思った時、「人の世界」のことが見えてきた。「人も同じだな…」と。

「環境が多く影響する」という風に色々な表現で書いていると思うのだけども、この”環境”の部分に他者の在り方を観たように思う(重ねたという意味)。

言行の一致。これは当人の在り方として、その軸はそれはそれで良い話でその事ではないのだけども、あくまでも「対人(ひと)」という関係性において、外からこれがどう見えるかと言うことで書いている。


例に出すには、私から見る他者を想像しながら書くしかないのでその様にしていくと、言葉は全く滑らかで、特に厳しいと感じるでもなく。(表現上)まったく強さも感じない様な人なのに、その在り方は正に鋭く(?)厳しく(?)、いや、厳しくも鋭くも感じないただ凛としたその在り方だけが、厳しさ・鋭さとこちらに表現させるようなその「結果」を身体に持っている、というような。

この形容しずらい部分がワンたちが嗅ぎ取る部分、「人の在り方」という所で、それが実は私は甘い、という風に感じたという話。

言葉での導きリードなどは大切なこともあり、人にとっては欠かせないのかもしれないけれど、生き物にしっかり共通するその様に映る「強さ」を、他者はそれを見て厳しい・鋭いなどと感じるのかもしれない。

そしてその様な環境、つまり在り方を持つ”人”が周りに居ることで、その様に学び、影響されるのだと思う。

こういう”コト”自体も、何度も観てきたはずなんだけど、何が違うかと言えばやはり、目線・視点の変更しかない。同じ”現象”は観て来ているのだから。だけど全くその時は、今までには浮かび上がらなかったモノが、今はしっかりと観えてくるのだから、何が違うのかと言ったら、視点と思う。


ワン達の個性があって、ニコルの様な子もいれば、本能的なピースみたいな子もいる。

そしてピースはできないのではなく、私が「そういう事をする必要はない」と思ってしまったから教えていないだけ。吠えるのも仕方ないと長い事私はそう思うようになっていた。それを聞くのも嫌なのに。

今、「いけない」と言うことを、無駄にほえ続けるそのクセを直すため、一回一回側へ行き、声をかけ座らせて(これは落ち着かせる行為)私に注意を向かせている。よくある躾け方の一つ。


ただ正直「面倒くさい」。
当たり前だ、一日に何度も吠え続けてきたそれに対応していくことは、全っ然楽なことじゃないのだけど、少し続けてみる。近づけばピースは自ら座ってこちらに注目する事ができる。つまり私が止めないから今まで派手にやり続けた、ということ。

「目線が変わる」ということで、完全に見える範囲が大きくなるのだけども、”ピースのみち”同様に、私も考えながらやらなければならない事は、昨日の主人との話でも同じこと。

これが、やろうとして起きたことではなく、その様になった事を重ね重ね起きる現象から「こちら側が」拾って、それに対処していくという流れ。どちらから捉えるのが正しい(間違い)とは思うことなく、私は気づいたら流れを活かしてそれをやって行くという事で、一つ一つ消化している様に思う。

・・・

大分長くなってしまいましたがまとめていない状態です。明日は、昨日・今日の記事をまとめる感じの内容で書いていきます。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!