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湧く程度の思い

改めて痛感したのは、
人の”目”は、コトの世界に入り込んで殆ど何も見えていない
ということ。

このコトの世界から離れていく、少し淡くする弱める、と言った目の使い方も思い出さないと、これだけ見える世界を狭くしてしまったのは、”自ら”というものなんだという事にも辿り着けない。

人の持つ自らの機能によって、そう見えてしまうのだから仕方はないのだけど、その機能の使い方はかなり限定して使い続けてきた事による偏りとなっていること。

いつもの範囲でものを見ている動作の後、目を全方位に、前向きのまま後ろ側を見るように眼球を動かすと、結構な刺激を感じる事ができる。

気持ちがいいし、同じところを見ていることは、それだけコリ固まった状態にあるという事なんだよね。

・・・

思った時にメモしていたのだけど、中々ここ(note)に移って来なかった。何年もの時間をかけて、”これは凄いことだったんだな…”と、私が実感したという内容。

もう大分前、「何年も前」になってしまうんだよな。

世の中が、ふわっとしていて軽く、「それで良いのよ~」みたいな風潮があった頃…、「それで…」の表現は私の感じ方だけども。

有名な占い師さんの発信している内容は、頑としてしっかりと硬いものだった。占いという事に深い興味は持っていなくて、読み物として、考え方として読んでいた―――、正直内心では迷う考えもあった。

素晴らしい事に、その人の姿勢はずっと変わっていない。比較した世とは正反対の、しっかりとした、言葉はキツクはないけど、大体厳しさを持つ内容になっていた。


久しぶりに読んだ時、この時漸くそれが明るく見えた。

「とても難しい、キワの話をしていたんだな…」、言ってる事が難しいのでなく、実行する事の難しさがそこにあったのだと、何年もかけてやっと呑み込んだ。

そしてこの事は、それがやっと分かったというよりも、「その在り方もそりゃそうだ」という、反対側大多数から見ることしかできなかった私が、両方が同じサイズとして捉えた、という事ができた―――。ソレができる場、区間に当てはめることができたからだと思う。

言葉にする時点で(メモする時のこと)、「ん…?なにか今一つ近づかない感覚」でメモは終わってしまったのだけど。少し放置しても、その一瞬の”明るさ”は、まったく同じことを現す言葉としては近づけられなかったのだけど。

それを、”私”の感じた印象で表現してしまうと、「凄い人だったんだな…」というもの。読む側=外から文字・表現を読んでいる”私”のうちは、世の中の大多数の風潮との違いの大きさでしか見えていなかったことも分かった。

そして少し書いてある、やはりこれも”区間”なんだけど、その事がキレイにハマる位置をそこで観たようだった。それは、読む側の”在る場所”が無意識に自然と反映された捉え方をする為、自分が違う区間を憶えなければ(体験しなければ)、結局は「あっても観えない」という事だと思った。

(”厳しさのある内容”と表現しているけども、それは当時の私の持つ感想で、そしてこの”厳しい”と言う表現を使う時、まだ行えていないまたは行うことを習慣としていない、という様なそんな状態に自分がある時のように思う。

習慣になっている者にとっては、しみじみとその言葉が出てくる事はないから。「言葉」はいつも当たり前に言っている事は、その人の当たり前の話)


ちょっと今回のこの内容だけでは無理だけど、この数日の他のことも絡めて、少しずつアタマの中・外の旅(時間)という様な、空間の違いその感じ方などがポツポツ浮かんでいる。

どの様に束ねられるか分からないけど、「”私”というものを抜く」という、今まで度々使ってきた「表現」から、その状態”が頭の中だけでなく、「実(身?)」も紐づいてくる、という様な感じか。結び先をサーチ中という雰囲気がある。

それはしっかりと、脳の機能にお任せしたいと思う。

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日曜のラジオ内では、少し変わった言い方をしてしまったので、少しそれに触れたいのだけど。

「大きな雲に助けられたらいいなぁ…」

こう言ったからそうなったとか、そうなる事を掴んで私が口にした、とか言うつもりもなく。昔はそんな風に思ったり表現したりの時期もあったけども今は大体それは「違うんだな」という事しか思わない。

ただ、その日の夕方の緑タイムできちんと「ありがとう」を空に伝えたのは、因果は不明でも私が「そうなればいい」と思ったこととが事実その様になった事を”観ている”わけだから、その事に対して「ありがとう」と言った。


これとは別に少し前にも、「全ては味方だ」という表現をしているのだけども。それもあまり深く考えることなく、”私”の状態から抜け出るために自然と放った(思った)言葉であって、ソレとコレとを直接に結べなくても、自分の中であれこれ考えてしまう状態から解放される事が、自分にとって一番良くて(その時の話)、これは”考え方”をただその場に合わせて活用しているだけのこと。

少し奥まった話で言えば、すべて味方という表現は、通常私たちが、何かと何かを分離、分けて物事を考えてしまう事によって受け取ってしまう、不必要な在り方、考え、選択を避ける行為(と私は思っている)。

その自らを縛ろうとした瞬間に、解放する手段として放っただけなので、私の中で”因果”は生まれず、ただ自然なこと、行いの結果をもらった(結果があった)だけ、という事になる。

ただ、それだけ。

他者に対し起こることが望みだとしても、この自分が「そうであれば良い」と同時に望んでいるのだから”私の想い”でもある。「願い」にもしない、一番通りやすい程度だろうと思う(*^^*)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!