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通信手段アレコレ(笑)

「共にある」

というのは、各々・それぞれという事だと思っていて、一緒にくっついている事だとは思っていないと色んな形で触れてきた。

そしてまた、「やっぱりそうかな…」と、その想いを確認したように思う。

例えば、自分に同意してもらえる事は自分自身を後押ししてもらっているようで、心強くて本当に嬉しく思うのは正直な気持ちとしてあるのは事実。

それとは別に、言葉でなくてその”人”の行動を表すケースも多くある。私はこのケースをよく目にする様に感じている。

その時。
内容なんて殆ど関係なくて読んでいなくて(笑)、それはその奥の「行い」を直接に視に行っているので、意味を拾っていない。

そういうものだから。

それが十分すぎる訴えとして、読む側のこちらにしっかりと入ってくる。私とは全く異なるコトを表現している”その姿”が、私には「共」という風に感じられる。(以前のブロガーさんの記事を読んでの話を書いています)

こちらが投げたモノ(記事)に対して向こう側からの返球があって、その”返球”は人それぞれで良くて。人それぞれでないと全くおかしいもので、それがあるから「この人」という事が分かってくる。

もっと言えば、人という一応のカタチは掴みながら、内容を見ていない時点でそんな事はある意味どうでも良くて、「直接」に感じ取る行いをする。それはその様な掴み方をするもの同士の通信方法でもある様に、仮に細かい齟齬はあったとしても、それすらも大した事はなくて、その後に自然と摺り合っていく。


こんな風にここまで書いているけども、直接のやり取り(コメント)なんて、数回した事がある程度なんだけど、私にとってそれも関係なくて、表の接点なんてほぼない、に等しいのだけども”同士”という風に観えるもの。

それは、それ以外の世の中の”他者”に対しても同様の考え方をしていて、それぞれの「行い」は、それぞれに於いてという事がやっぱり私には絶対である、という風に感じている。

冒頭に書いた様に、分かり易い言葉での同意というものは嬉しい事は認めつつ、でもその時の自分を冷静に観ると、意外と単に安心しているだけという事が見え隠れしているのも分かる。


そんな事を何度か繰り返して自分を観ているうちに、それは自分由来の”判定”であって、もう少しそこから引ける事にも気づいて行った、私の表面で思う「同じ」に収めちゃいけないんだ…と。

例えば昨日書いた様に、我が家は主人と生活スタイルが、大分別々になるのだけども、家族や他者というのは、助けが得られるならば十分に互いに活用すれば良いと、私は思っているけども、今の私の環境の変化に於いては、少し違った目線を持って見ている所があり、私の心が安に甘えない様にしたい、と感じている所。


それは、今までやる事・やれる事はもちろんやって来たと言えるのだけども、十分に意識が上がっていない”置き去りのもの”もあるのは、私自身が一番知っている事でもあって、今はそこを少し引き上げる事が出来る機会になると思い、新しい環境に馴染んでいく事を目指している。

別々の環境で育ったはずの2人は、何故か境遇が似ていて、そんな事を知らずに一緒になった。若い頃は、ただ一緒にいる事が楽しくて嬉しくて、一緒の行動をしている事が喜び、だと当たり前に思っていた。

自分自身を知って行けば行くほど、分離が必要な事も理解され、そういう「一緒」という事でなはいと言うことが分かる度、自分が引き剥がさなければいけないものがあると知っていった。

そう言う事に慣れていっても、環境が変わればまた自分の中に感じ取れるモノは拾えて、それに気づく度に”現実”に意識を合わせていく。

何かが壊れる・崩れるというのは。

色々な衝撃はあるものの、それが悪いものとは私は考えていない。昔とは違ってその様に思うようになった…、感情部分は慣れない事に出会えば衝撃は大きくなるけれども。

壊れる・崩せる、何かがあったという事だから。

それが自分の、時間をかけて築き上げてきたものならば必死に守るものだけども、それは今、”守る価値があるかどうか”という事は時間が経っているものほど考えてみても良いのだと思う。


何かを崩すから同時に何かが始まる。
何かを始める為に、何かが壊れる。

大きな意識側から寄越された、きちんと用意されたものを受け取っていくのならば、壊れる事も必然。12345とこちらから数えるのは、この自覚する意識。

もう、そこへ行く事を決めている、決まっている時、前提が変わるとそれは54321という”消化”のカウントになる。

”考え方”は全く人それぞれで何でも良いのだけども、言葉にしているその背後、奥側が間違いなく表側に漏れ出しているので、そう言う事から、「口にする言葉で分かる」という事が世の中でよく言われる。

表現は、必ず中にあるものが現れる。

ピントがそこに合っている人には、表ではなくてソコが中心に映っている。


そのそれぞれが異世界で活動しながら、安心する場所を確認してまたそれぞれの異世界へ飛び出していく”社会”という世界。

これを。

「共にある」という風に私は考えている。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!